なぜだかみずからいぶかった。やがて彼は、シルヴァン・コーンの雇われてる書店の名であることを思い出した。彼は所番地を書き取った。……しかしそれが何になろう? もとより尋ねてなんか行くものか……。なぜって?……友人だったあのディーネルの奴《やつ》でさえ、ああいう待遇をしたところを見ると、昔さんざんいじめられて憎んでるに違いない此奴《こいつ》から、何が期待されよう? 無駄《むだ》に屈辱を受けるばかりではないか。彼の血潮は反発していた。――しかしながら、おそらくキリスト教教育から来たらしい、先天的悲観主義の気質のために、彼は人間の賤《いや》しさをどん底まで感じてみようとした。「俺《おれ》は遠慮する必要はない。くたばるまではなんでもやってみなけりゃいけない。」
一つの声が彼のうちで言い添えた。
「そして、くたばるものか。」
彼はふたたび所番地を確かめた。そしてコーンのところへやって行った。少しでも横柄《おうへい》な態度に出たら、すぐにその顔を張りつけてやる決心だった。
書店はマドレーヌ町にあった。クリストフは二階の客間に上がって、シルヴァン・コーンを尋ねた。給仕が、「知らない」と答えた。クリストフはびっくりして発音が悪かったのだと思い、問いをくり返した。しかし給仕は、注意深く耳を傾けた後、家にそんな名前の者はいないと断言した。クリストフは面くらって、詫《わ》びを言い、出かけようとした。その時廊下の奥の扉《とびら》が開《あ》いた。見ると、コーンが一人の婦人を送り出していた。ちょうど彼はディーネルから侮蔑《ぶべつ》を受けたばかりのところだったので、皆が自分を馬鹿にしているのだと思いがちだった。それで、コーンは自分が来るのを見て、いないと言えと給仕に言いつけたのだと、彼は真先《まっさき》に考えた。そんな浅はかなやり方に、堪えられなかった。そして憤然と帰りかけた。すると呼ばれてる声が耳にはいった。コーンは鋭い眼つきで、遠くから彼を認めたのだった。そして唇《くちびる》に笑いをたたえ、両手を広げ、大袈裟《おおげさ》な喜びをありったけ示して、駆け寄ってきた。
シルヴァン・コーンは、背の低い太った男で、アメリカ風にすっかり髭《ひげ》を剃《そ》り、赤すぎる顔色、黒すぎる髪、広い厚ぼったい顔つき、脂《あぶら》ぎった顔だち、皺《しわ》寄った穿鑿《せんさく》的な小さい眼、少しゆがんだ口、重々しい意地悪げな微笑をもっていた。華奢《きゃしゃ》な服装をして、身体の欠点を、高い肩や大きい臀《しり》を、隠そうとつとめていた。そういう欠点こそ、彼の自尊心をなやます唯一のものだった。身長がもう二、三寸も伸びて身体つきがよくなることなら、後ろから足蹴《あしげ》にされてもいとわなかったろう。その他の事においては、彼は自分自身にしごく満足していた。自分に敵《かな》う者はないと思っていた。実際すてきな男だった。ドイツ生まれの小さなユダヤ人でありながら、のろまな太っちょでありながら、パリーの優雅な風俗の記者となり絶対批判者となっていた。社交界のつまらない噂種《うわさだね》を、複雑な巧妙をきわめた筆致で書いていた。フランスの美文体、フランスの優美、フランスの嬌艶《きょうえん》、フランスの精神――摂政時代の風俗、赤踵《あかかかと》の靴《くつ》、ローザン式の人物――などの花形だった。彼は人から冷やかされていたが、それも成功の妨げにはならなかった。パリーでは滑稽《こっけい》は身の破滅だと言う人々は、少しもパリーを知らない輩《やから》である。身の破滅どころか、かえってそのために生き上がってる者がいる。パリーでは、滑稽によってすべてが得られる、光栄をも幸運をも得られる。シルヴァン・コーンは、そのフランクフルト式な虚飾のために毎日かれこれ言われても、もはやそんなことは平気だった。
彼は重々しい調子と頭のてっぺんから出る声とで口をきいていた。
「やあ、これは驚いた!」と彼は快活に叫びながら、あまり狭い皮膚の中につめこまれてるかと思われる指の短いぎこちない手で、クリストフの手を取って打ち振った。なかなかクリストフを放しそうになかった。最も親しい友人にめぐり会ったような調子だった。クリストフはあっけにとられて、コーンから揶揄《からか》われてるのではないかと疑った。しかしコーンは揶揄ってるのではなかった。なおよく言えば、もし揶揄ってるのだとしてもそれはいつもの伝にすぎなかった。コーンは少しも恨みを含んではいなかった。恨みを含むにはあまりに利口だった。クリストフからいじめられたことなんかは、もう久しい以前に忘れてしまっていた。もし思い出したとしてもほとんど気にしなかったろう。新しい重大な職業を帯びパリー風の華美な様子をしているところを、旧友に見せてやる機会を得て大喜びだった。驚いたと言うのも嘘ではなかった。クリストフが訪れて来ようなどとは、最も思いがけないことだった。彼はきわめて炯眼《けいがん》だったので、クリストフの訪問には一つの利害関係の目的があることを予見してはいたが、それは自分の力にささげられた敬意だという一事だけで、すでに喜んで迎えてやる気になったのである。
「国から来たのかい。お母《かあ》さんはどうだい。」と彼は馴《な》れ馴れしく尋ねた。他の時だったらそれはクリストフの気にさわったかもしれないが、しかし他国の都にいる今では、かえってうれしい感じを与えた。
「だがいったいどうしたんだろう、」とクリストフはまだ多少疑念をいだいて尋ねた、「先刻コーンさんという人はいないという返辞だったが。」
「コーンさんはいないよ。」とシルヴァン・コーンは笑いながら言った。「僕はコーンとはいわないんだ。ハミルトンというんだ。」
彼は言葉を切った。
「ちょっと失敬。」と彼は言った。
彼は通りかかった一人の婦人の方へ行って、握手をして、笑顔《えがお》を見せた。それからまたもどって来た。そして、あれは激しい肉感的な小説で有名になった閨秀《けいしゅう》作家だと説明した。その近代のサフォーは、胸に紫色の飾りをつけ、種々の模様をちらし、真白に塗りたてた快活な顔の上に、艶《つや》のいい金髪を束ねていた。フランシュ・コンテの訛《なま》りがある男らしい声で、気障《きざ》なことを言いたてていた。
コーンはまたクリストフに種々尋ねだした。国の人たちのことを残らず尋ね、だれだれはどうなったかと聞き、すべての人を記憶してることを追従《ついしょう》的に示していた。クリストフはもう反感を忘れてしまっていた。感謝を交えた懇切な態度で答え、コーンにとってはまったく無関係な些細《ささい》な事柄をやたらに述べた。コーンはそれをふたたびさえぎった。
「ちょっと失敬。」と彼はまた言った。
そして他の婦人客へ挨拶《あいさつ》に行った。
「ああそれじゃあ、」とクリストフは尋ねた、「フランスには婦人の作家ばかりなのか。」
コーンは笑い出した。そしてしたり顔に言った。
「フランスは女だよ、君。君がもし成功したけりゃ、女を利用するんだね。」
クリストフはその説明に耳を貸さないで、自分だけの話をつづけた。コーンはそれをやめさせるために尋ねた。
「だが、いったいどうして君はこちらへ来たんだい。」
「なるほど、」とクリストフは考えた、「この男は何にも知らないんだな。だからこんなに親切なんだ。知ったらがらりと変わってしまうだろう。」
彼は昂然《こうぜん》と語りだした、自分を最も難境に陥らせるかもしれない事柄を、すなわち、兵士らとの喧嘩《けんか》、自分が受けた追跡、国外への逃亡などを。
コーンは腹をかかえて笑った。
「すてきだ」と彼は叫んでいた、「すてきだ! 実に愉快な話だ!」
彼は熱心にクリストフの手を握りしめた。官憲の鼻をあかしてやったその話を、この上もなく面白がっていた。話の主人公らを知っているだけになお面白がっていた。その滑稽《こっけい》な方面を眼に見るような気がしていた。
「ところで、」と彼はつづけて言った、「もう午《ひる》過ぎだ。つき合ってくれたまえ……いっしょに食事をしよう。」
クリストフはありがたく承知した。彼はこう考えていた。
「これは確かにいい人物だ。俺の思い違いだった。」
二人はいっしょに出かけた。途中でクリストフは思い切って要件をもち出した。
「君にはもう僕の境遇がわかってるだろう。僕は世に知られるまで、さしあたり仕事を、音楽教授の口でも、求めに来たんだが。僕を推薦してくれないかね。」
「いいとも!」とコーンは言った。「望みどおりの人に推薦しよう。こちらで僕はだれでも知っている。なんでもお役にたとう。」
彼は自分のもっている信用を示すのがうれしかった。
クリストフは感謝にくれた。心から大きな重荷が取れた心地がした。
食卓につくと彼は、二日も前から物を食べなかったかのようにむさぼり食った。首のまわりにナフキンを結えつけて、ナイフですぐ食べた。コーンのハミルトンは、そのひどい食い方や田舎《いなか》者めいた様子に、ごく不快を感じた。また自慢にしてる事柄をあまり注意してもくれないことに、同じく不満を覚えた。彼は自分の艶福《えんぷく》や幸運の話をして、相手を煙に巻いてやろうとした。しかしそれは無駄《むだ》な骨折りだった。クリストフは耳を傾けないで、無遠慮に話をさえぎった。彼は舌がほどけてきて馴《な》れ馴れしくなっていた。謝恩の念で心がいっぱいになっていた。そして未来の抱負を率直にうち明けながら、コーンを困らした。ことに、テーブルの上から無理にコーンの手を取って、心こめて握りしめたので、コーンをさらにやきもきさした。しまいには、感傷的なことを言い出して、故国にいる人々や父なるライン[#「父なるライン」に傍点]のために、ドイツ流の祝杯を挙げたがったので、コーンのいらだちは極度に達した。コーンは彼が今にも歌い出そうとするのを見てたまらなくなった。隣席の人々は二人の方を皮肉そうにながめていた。コーンは急な用務があるという口実を設けて立ち上がった。クリストフはそれにすがりついた。いつ推薦状をもらって、その家へやって行き、稽古《けいこ》を始めることができるか、それを知りたがった。
「取り計らってあげよう。今日、今晩にでも。」とコーンは約束した。「すぐに話をしてみよう。安心したまえ。」
クリストフは執拗《しつよう》だった。
「いつわかるだろう?」
「明日《あした》……明日……または明後日。」
「結構だ。明日また来よう。」
「いやいや、」とコーンは急いで言った、「僕の方から知らせよう。君を煩わさないように。」
「なあに、煩すも何もあるものか。そうだろう。それまで僕は、パリーで何にも用はないんだ。」
「おやおや!」とコーンは考えた。そして大声に言い出した。「いや、手紙を上げる方がいい。しばらくは面会ができないかもしれない。宿所を知らしてくれたまえ。」
クリストフは宿所を彼に書き取らした。
「よろしい。明日手紙を上げよう。」
「明日?」
「明日だ。間違いないよ。」
彼はクリストフの握手からのがれて逃げ出した。
「あああ!」と彼は思っていた。「たまらない奴だ。」
彼は店に帰ると、「あのドイツ人」が尋ねて来たら留守にするんだと、給仕に言いつけた。――十分もたつと、もうクリストフのことは忘れてしまった。
クリストフは汚《きたな》い巣へもどった。心動かされていた。
「親切な男だ!」と彼は思っていた。「俺は彼にたいして悪いことをしたことがある。だが彼は俺を恨んでもいない!」
そういう悔恨の念が重く心にかかった。昔悪く思ったことが今いかに心苦しいか、昔ひどく当たったことを許してもらいたいと今どんなに思ってるか、コーンへ書き送ろうとした。昔のことを思うと眼に涙が湧《わ》いてきた。しかし彼にとっては、一通の手紙を書くのは、大譜表を書くに劣らないほどの大仕事だった。そして、宿屋のインキやペンを、それは実際ひどいものではあったが、盛んにののしり散らした後、四、五枚の紙を書きなぐり消したくり引き裂いた後、もう我慢ができなくなってすべてを放
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