《ほう》り出した。
 その日の残りの時間はなかなか過ぎなかった。しかしクリストフは、寝苦しい昨晩と午前中の奔走とにひどく疲れていたので、椅子《いす》にかけたままついにうとうととした。夕方ようやくわれに返って、すぐに寝床についた。そして十二時間ぶっとおしにぐっすり眠った。

 翌日八時ごろから、彼は約束の返事を待ち始めた。彼はコーンの几帳面《きちょうめん》さを少しも疑わなかった。コーンが店へ出る前にこの宿へ寄るかもしれないと思って、一歩も外に踏み出さなかった。午《ひる》ごろになると、室をあけないために、下の飲食店から朝食を取り寄せた。それから、コーンが食事後にやって来るだろうと思って、ふたたび待ってみた。室の中を歩き、腰をおろし、また歩き出し、階段を上ってくる足音が聞こえると、扉《とびら》を開いてみたりした。待ち遠しさをまぎらすためにパリーのうちを散歩してみる気も、さらに起こらなかった。彼は寝台の上に横たわった。思いはたえず老母の方へ向いていった。彼女もまたこの時彼のことを思っていたのだ――彼のことを思ってくれるのは彼女だけだったのだ。彼は彼女にたいして、限りない愛情と見捨てた悔恨とを感じた。しかし手紙は出さなかった。どういう地位を見出したか知らせ得るまで待つことにした。二人はたがいに深い愛情をいだいていたにもかかわらず、愛してることだけを単に告げるような手紙を書くことは、どちらも考えていなかったに違いない。手紙というものは、はっきりした事柄を告げるためのものであった。――彼は寝台の上に寝そべり、頭の下に両手を組んで、ぼんやり考え込んだ。室は往来から隔たってはいたけれど、静けさのうちにはパリーのどよめきがこもっていた。家は揺れていた。――また夜となったが、手紙は来なかった。
 前日と同じような一日が、また始まった。
 三日目になって、クリストフは好んで蟄居《ちっきょ》していたのが腹だたしく思えて、外出しようと決心した。しかしパリーには、最初の晩以来、一種の本能的な嫌気《いやけ》を覚えていた。彼は何にも見たくなかった。なんらの好奇心も起こらなかった。自分の生活にあまり心を奪われていたので、他人の生活を見ても面白くなかった。過去の記念物にも、都会の塔碑にも、心ひかれなかった。それで彼は、一週間以内にはコーンの許《もと》へ行くまいときめていたものの、外へ出るや否や非常に退屈して、まっすぐにコーンのところへ行った。
 言いつけられていた給仕は、ハミルトン氏は所用のためパリーから出かけたと告げた。クリストフにとっては一打撃だった。彼は口ごもりながら、いつハミルトン氏は帰るのかと尋ねた。給仕はいい加減に答えた。
「十日ばかりしましたら。」
 クリストフは駭然《がいぜん》として家に帰った。その後毎日室に閉じこもった。仕事にかかることができなかった。自分のわずかな所持金――母がていねいにハンカチにくるんでカバンの底に入れて贈ってくれた些少《さしょう》な金額――が、どんどん減ってゆくのを見て恐ろしくなった。彼は切りつめた生活法を守《まも》った。ただ夕方だけ、夕食をしに階下の飲食店へ降りて行った。そこでは「プロシャ人」とか「漬菜《シュークルート》」とかいう名前で、早くも客の間に知れ渡ってしまった。――彼は非常な努力を払って、フランスの音楽家らへ二、三の手紙を書いた。それも漠然《ばくぜん》と名前を知ってるだけだった。十年も前に死んでる人さえあった。彼はそういう人々に、面会を求めた。綴字《つづりじ》はめちゃくちゃだったし、文体はドイツで習慣となってる、長たらしい語位転換と儀式張った形式とで飾られていた。彼は書簡を「フランスのアカデミー院」へ贈った。――ただ一人の者がそれを読んで、友人らと大笑いをした。
 一週間後に、クリストフはまた書店へ出かけた。このたびは偶然に助けられた。入口で彼は、出かけようとするシルヴァン・コーンにぶっつかった。コーンはつかまったのを見て顔を渋めた。しかしクリストフはうれしさのあまり、その渋面に気づかなかった。彼は例のうるさい調子で、コーンの両手を取り、※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々《きき》として尋ねた。
「旅に行ってたそうだね。面白かったかい。」
 コーンはうなずいたが、しかしその顔は和らいでいなかった。クリストフは言いつづけた。
「僕が来たのは……わかってるだろう……。話はどうだった?……え、どういうふうだい。僕のことを言ってくれたろうね。返事はどうだった。」
 コーンはますます顔を渋めた。クリストフは様子ありげなその態度に驚いた。まるで別人のようだった。
「君のことは話してみたよ。」とコーンは言った。「だがまだ結果はわからない。隙《ひま》がなかったんだ。君に会った時から実に忙しかった。用事がたくさん頭につかえているんだ。どうして片付けていいかわからないほどだ。まったくやりきれない。病気にでもなりそうだ。」
「気分がすぐれないのかい。」とクリストフは気づかわしい調子で尋ねた。
 コーンは嘲《あざけ》り気味の一|瞥《べつ》を注いで答えた。
「まったくいけない。この数日へんてこだ。非常に苦しい気持がする。」
「そりゃたいへんだ!」とクリストフは彼の腕を取りながら言った。「ほんとに用心したまえ。身体を休めなけりゃいけないね。僕まで余計な心配をかけて、実に済まない。そう言ってくれりゃよかったのに。ほんとにどんな気持だい?」
 彼が悪い口実をもあまり真面目《まじめ》に取ってるので、コーンは愉快なおかしさがこみ上げてくるのをつとめて押し隠しながらも、相手の滑稽《こっけい》な純朴《じゅんぼく》さに気が折れてしまった。皮肉はユダヤ人らにとって非常に大きな楽しみであって――(この点においては、パリーにおけるキリスト教徒の多くはユダヤ人と同じである)――皮肉を浴びせる機会を与えてさえもらうならば、いかに不快な者にたいしても、また敵にたいしてまでも、とくに寛大な心をいだくようになるのである。そのうえコーンはまた、自分一身のことをクリストフが心配してくれるのを、感動せずにはいられなかった。彼は世話をしてやりたい気持になった。
「ちょっと思いついたことがあるんだがね。」と彼は言った。「稽古《けいこ》の口があるまで、楽譜出版の方の仕事をしないかね。」
 クリストフは即座に承知した。
「いいことがある。」とコーンは言った。「ある大きな楽譜出版屋の重立った一人で、ダニエル・ヘヒトという男と、僕は懇意にしてる。それに紹介しよう。何か仕事があるだろう。僕は君の知るとおり、その方面のことは何にもわからない。しかしあの男はほんとうの音楽家だ。君なら訳なく話がまとまるだろう。」
 二人は翌日の会合を約した。コーンはクリストフに恩をきせて追っ払ったので、悪い気持はしなかった。

 翌日、クリストフはコーンの店へ誘いに来た。彼はコーンの勧めによって、ヘヒトへ見せるために自分の作曲を少しもって来た。二人はヘヒトを、オペラ座近くの楽譜店に見出した。二人がはいって来るのを見ても、ヘヒトは傲然《ごうぜん》と構えていた。コーンの握手へは冷やかに指先を二本差し出し、クリストフの儀式張った挨拶《あいさつ》へは答えもしなかった。そしてコーンの求めによって、二人を従えて隣りの室へはいった。二人にすわれとも言わなかった。火のない暖炉にもたれて壁を見つめたままつっ立っていた。
 ダニエル・ヘヒトは、四十年配の背の高い冷静な男で、きちんと服装を整え、いちじるしくフェーニキア人の特長を有し、怜悧《れいり》で不愉快な様子、渋めた顔つき、黒い毛、アッシリアの王様みたいな長い角張った頤髯《あごひげ》をもっていた。ほとんど真正面に人を見ず、冷やかなぶしつけな話し方をして、挨拶《あいさつ》までが侮辱の言のように響いた。でもその横柄《おうへい》さはむしろ外面的のものだった。もちろんそれは、彼の性格のうちにある軽蔑《けいべつ》的なものと相応じてはいたが、しかしなおいっそう、彼のうちの自動的な虚飾的なものから来るのであった。こういう種類のユダヤ人は珍しくない。そして世間では彼らのことをあまりよく言わない。彼らのひどい剛直さは、身体と魂との不治の頓馬《とんま》さ加減に由来することが多いけれども、世間ではそれを傲慢《ごうまん》の故《ゆえ》だとしている。
 シルヴァン・コーンは、気障《きざ》な饒舌《じょうぜつ》の調子で大袈裟《おおげさ》にほめたてながら、世話をしようというクリストフを紹介し始めた。クリストフは冷やかな待遇に度を失って、帽子と原稿とを手にしながら身を揺っていた。コーンの言葉が終わると、それまでクリストフの存在を気にもかけないでいたようなヘヒトは、軽蔑《けいべつ》的にクリストフの方へ顔を向け、しかもその顔をながめもしないで言った。
「クラフト……クリストフ・クラフト……私はそんな名前をまだ聞いたことがない。」
 クリストフは胸のまん中を拳固《げんこ》でなぐられたようにその言葉を聞いた。顔が赤くなってきた。彼は憤然と答えた。
「やがてあなたの耳へもはいるようになるでしょう。」
 ヘヒトは眉根《まゆね》一つ動かさなかった。あたかもクリストフがそこにいないかのように、泰然と言いつづけた。
「クラフト……いや、私は知らない。」
 自分に知られていないのはくだらない証拠だと考える者が、世にあるが、彼もそういう人物だった。
 彼はドイツ語でつづけて言った。
「そしてあなたはライン生まれですね。……音楽に関係する者があちらに多いのには、実に驚くほどです。自分は音楽家だと思っていない者は、一人もないと言ってもいい。」
 彼は冗談を言うつもりであって、悪口を言うつもりではなかった。しかしクリストフは曲解した。彼は答え返そうとした。しかしコーンが先に口を出した。
「ですけれど、」と彼はヘヒトへ言った、「私だけは音楽を少しも知らないことを、認めていただきたいものですね。」
「それはあなたの名誉ですよ。」とヘヒトは答えた。
「音楽家でないことをあなたが喜ばれるなら、」とクリストフは冷やかに言った、「残念ですが私はもう用はありません。」
 ヘヒトはやはり横を向きながら、同じ無関心な調子で言った。
「あなたは音楽を書いたことがあるそうですね。何を書きましたか。もとより歌曲《リード》でしょう?」
「歌曲《リード》と、二つの交響曲《シンフォニー》と、交響詩や、四重奏曲や、ピアノの組曲や、舞台音楽などです。」とクリストフはむきになって言った。
「ドイツではたくさん書くものですね。」とヘヒトは軽蔑《けいべつ》的なていねいさで言った。
 この新来の男が、そんなにたくさんの作品を書いていて、しかも自分ダニエル・ヘヒトがそれを知らないだけに、彼はなおいっそう疑念をいだいていた。
「とにかく、」と彼は言った、「あなたに仕事を頼んでもいいです、友人のハミルトンさんの推薦があるので。ただいまちょうど青年叢書[#「青年叢書」に傍点]という叢書《そうしょ》物を作っています。たやすいピアノの曲を出すのです。で、シューマンの謝肉祭[#「謝肉祭」に傍点]を簡単にして、四手や六手や八手に直すことを、あなたにしてもらえましょうか。」
 クリストフは飛び上がった。
「そんなことをさせるんですか、僕に、僕に!……」
 その率直な「僕に」という言葉に、コーンは面白がった。しかしヘヒトは気分を害した様子をした。
「あなたの驚く訳が私にはわからない。」と彼は言った。「そうたやすい仕事ではないですよ。やさしすぎるように思われるなら、なお結構です。今にわかることです。あなたはりっぱな音楽家だと自分で言ってるし、私もそう信ずべきですが、しかし、要するに私はあなたを知りません。」
 彼は心の中でこう思っていた。
「こんな元気な奴の口ぶりでは、まるでヨハネス・ブラームスよりりっぱなものが書けるとでもいうようだ。」
 クリストフは返辞もしないで――(怒りを押えようと誓っていたからである)――頭に深く帽子をかぶり、そして扉《とびら》の方へ進んでいった。コーン
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