をし、面白くもないことに面白がってるふうをすることが、なぜ余儀ないのか?――面白くないというのはほんとうなのか?――一年前だったら、彼はかかる仲間には我慢ができなかったはずである。しかし今や、彼らは彼をいらだたせながらも実は面白がらせていた。パリー風の無関心さが多少彼のうちにしみ込んできたのか? 彼は不安の念をもって、自分が弱くなったのではないかと怪しむこともあった。しかし反対に、彼はいっそう強くなったのだった。他国の社会において、彼の精神はいっそう自由になったのだった。彼の眼はわれにもあらず、世間の大喜劇に向かって開かれていた。
そのうえ、芸術家を知るにつれてその作品に興味をもちだしてくるこのパリーの社会から、自分の芸術が知られんことを望むならば、彼は否でも応でもかかる生活をつづけなければならなかった。またこれらの俗衆の間に、生活に必要な稽古《けいこ》の口を得んと望むならば、彼は人に知られることを求めなければならなかった。
それにまた、人は一つの心をもっている。心は知らず知らず愛着する。いかなる環境にあっても、愛着の対象を見出してゆく。もし愛着しないとすれば、生きることができないのである。
クリストフが稽古を授けてる若い令嬢のうちに、自動車を製造してる富豪の娘で、コレット・ストゥヴァンというのがあった。父はフランスに帰化してるベルギー人で、アンヴェルスに住まってるアングロ・アメリカ人とオランダ婦人との間《あい》の子であった。娘の母親はイタリー人であった。それはまったくパリー的な家庭だった。クリストフにとっては――また多くの他人の眼から見ても――コレット・ストゥヴァンはフランスの若い令嬢の典型だった。
彼女は十八歳になっていた。若い男たちにやさしみを送るビロードのような真黒な眼、湿《うる》んだ光を眼いっぱいにみなぎらすスペイン風な瞳《ひとみ》、すねたような口つきをしながら話の間に軽く顰《ひそ》めたり動かしたりする、やや長い奇妙な小さい鼻、乱れた髪、愛嬌たっぷりの顔、白粉をなすりつけた平凡な肌《はだ》、やや脹《ふく》れっ気味の大きな顔だち、太った子猫《こねこ》のような様子。
彼女はごくすらりとした身体つきで、服の着つけもよく、誘惑的な挑戦《ちょうせん》的な姿だったが、わざとらしい馬鹿げた嬌態《きょうたい》をいつも見せていた。小娘らしいふりを装《よそお》って、船底|肱掛椅子《ひじかけいす》でいつまでも身体を揺り、「どう、そんなのないの?」などと小さな叫び声をたて、食卓で自分の好きな料理が出ると、両手をたたき、客間では、巻|煙草《たばこ》を吹かしてみ、男の前で女の友だちにたいする途方もない愛情の様子を見せ、その首に飛びつき、その手をなで、その耳にささやき、やさしい細い声で、無邪気なことを言い、また巧みに悪口をも言い、場合によっては、何気ないふうでごく際《きわ》どい事をも言い、またいっそうそれを人にも言わせ、――きわめておとなしい小娘のような清純な様子をし、重々しい眼瞼《まぶた》のある、肉欲的な陰険な輝いた眼で、狡猾《こうかつ》そうな横目を使い、あらゆる冗談を待ち受け、あらゆる猥《みだ》らな話を拾い取り、どこかで男の心を釣《つ》ろうとつとめていた。
それらの猿《さる》知恵は、小犬のようなそれらの道化振りは、猫被《ねこかぶ》りのその無邪気さは、いかにしてもクリストフの気に入るはずがなかった。放縦《ほうじゅう》な娘の策略に巻き込まれたり、あるいは面白そうな眼でそれをながめることよりも、彼には他になすべきことがあった。彼はパンを得なければならなかった、自分の生命と思想とを死から救わなければならなかった。客間の鸚鵡《おうむ》たる彼女らから受ける唯一の利益は、この必要な方法を得るということだけだった。彼は金の代わりに彼女に、稽古《けいこ》を授けていた。額《ひたい》に皺《しわ》を寄せ、仕事に気をこめて、熱心にやりながら、仕事のつまらなさ加減のために気を散らされないようにし、またコレット・ストゥヴァンのように婀娜《あだ》っぽい弟子《でし》たちの揶揄《やゆ》のために、気を散らされないようにつとめていた。彼はコレットにたいしても、その小さな従妹《いとこ》にたいするくらいの注意をしか払っていなかった。この従妹というのは、黙った内気な十二歳の少女で、ストゥヴァン家に引き取られていたものであるが、やはりクリストフからピアノを教わっていた。
しかしコレットはきわめて機敏だったので、自分の容色もクリストフにたいしては無駄《むだ》であると感ぜずにはいなかったし、またきわめて柔和だったので、一時彼のやり方に順応せずにはいなかった。彼女はそれをみずからつとめるにも及ばなかった。それは生来の一本能だった。彼女は女だった、形のない波のようなものだった。彼女が出会うあらゆる魂は、彼女にとっては器《うつわ》のようなもので、彼女は好奇心からまた必要から、すぐにその形をみずから取るのであった。存在せんがためには、いつも他の人となる必要があった。彼女の性格と言えば、一つの性格者でないということであった。彼女はしばしば自分の器を取り換えていた。
クリストフは彼女をひきつけていた。それには多くの理由があったが、その第一のものは、彼が彼女からひきつけられていないということだった。なお他の理由としては、彼女の知ってるあらゆる青年と彼が異なってるからでもあった。こんな形のこんな粗暴な容器に、彼女はまだかつて順応しようとしたことがなかった。また最後の理由としては、彼女は容器や人々の正確な価値を一見して評価するのに、民族的な巧慧《こうけい》さをそなえていたから、クリストフには優雅な点はないが、骨董《こっとう》品的なパリー人の示すことのできない堅実さをもっているということを、完全に見て取ったからであった。
彼女は現代の暇な若い娘の大多数と同じ調子で、音楽をやっていた。盛んにやるとともにほとんどやっていなかった。言い換えれば、常に音楽をやりながらほとんど何にも知らなかった。仕事がないために、様子ぶるために、楽しみのために、終日ピアノをたたきちらしていた。あるいは自転車をでも取扱うようなふうにやることもあった。あるいは趣味と魂とをこめてごくうまくひくこともあった。――(彼女は一つの魂をもってるとも言えるほどだった。しかしそれには、一つの魂をもってるだれかの地位に身を置けば十分なのであった)――彼女はクリストフを知る前には、マスネー、グリーグ、トーマ、などを好むこともできた。しかしクリストフを知ってからは、そういう人々をもう好まないこともできた。そして今ではバッハやベートーヴェンをごく正しくひいていた――(実を言えばそれは大したことでない)――しかしいいことには、彼女は彼らを好んでいた。が結局は、彼女が好んでいたものは、ベートーヴェンでもトーマでもバッハでもグリーグでもなかった。それは、音符をであり、音響をであり、鍵盤《けんばん》の上を走る自分の指をであり、神経の弦を刺激する弦の震えをであり、快感をそそるそのくすぐりをであった。
貴族的な邸宅の客間の中は、やや色|褪《あ》せた壁布で飾られていて、室のまん中の画架の上には、強健なストゥヴァン夫人の肖像がかかっていた。流行児の一画家が描いたもので、眼には光がなく、身体は螺旋《らせん》状にねじ曲げて、百万長者の魂の世に稀有《けう》なことを表現するため、あたかも水なき花のように、憔悴《しょうすい》した姿に描かれていた。ガラス窓の壁口からは、白雪を頂《いただ》いた老樹が見えていた。――その大きな客間の中に、いつもピアノにすわってるコレットを、クリストフは見出した。彼女は際限もなく同じ楽句をくり返し、柔らかな調子はずれの響きで耳を楽しませていた。
「ああ、」とクリストフははいりながら言った、「また猫《ねこ》が喉《のど》を鳴らしていますね。」
「いやな方《かた》!」と彼女は笑いながら言った。
(そして彼女はやや湿っぽい手を彼に差し出した。)
「……まあ聴《き》いてちょうだい。りっぱじゃありませんか。」
「たいへん結構です。」と彼は冷淡な調子で言った。
「聴いていらっしゃらないのね。……よく聴いてちょうだいよ!」
「聞いていますよ。……いつも同じものですね。」
「ああ、あなたは音楽家じゃないわね。」と彼女はむっとして言った。
「それでも音楽のつもりですか。」
「え、音楽じゃないんですって?……では、なんだとおっしゃるの?」
「御自分でよくわかってるでしょう。失礼に当たるから私の口からは言いますまい。」
「そんならなおおっしゃらなけりゃいけません。」
「言ってもらいたいんですか。……お気の毒さま!……いったいあなたは、ピアノを相手に何をしてるのか自分で知っていますか。……あなたはふざけてるんです。」
「まあ!」
「そうですとも。あなたはピアノにこう言っています、ピアノさん、ピアノさん、優しい言葉を聞かしてちょうだい、もっとよ、私をかわいがってちょうだい、ちょっとキスしてちょうだいよ!」
「もうたくさんよ!」とコレットは半ば笑い半ば怒《おこ》って言った。「あなたには人を尊敬する念が少しもないのね。」
「少しもありませんよ。」
「横柄《おうへい》な方ね。……それに第一もしそうだったとしても、それこそほんとうに音楽を愛する仕方ではありませんか。」
「ああ、お願いだから、音楽とそんなこととを混同しないでください。」
「でもそれが音楽ですわ。美しい和音は接吻《せっぷん》と同じですもの。」
「そんなことをあなたに教えた覚えはありません。」
「でもほんとにそうじゃありませんか……。なぜ肩を怒らしなさるの。なぜ顔をしかめなさるの?」
「不快だからです。」
「まあひどいわ。」
「不品行の話でもするような調子で、音楽のことを言われるのを聞くのは、私は不快です。……しかし、それはあなたが悪いのではない。あなたの世界が悪いからです。あなたをとり巻いてるこの無趣味な社会は、芸術を一種の許された道楽だと見なしている。……さあ、おすわりなさい。奏鳴曲《ソナタ》をひいてごらんなさい。」
「でも、もう少し話しましょう。」
「私は話をしに来てるのではありません。ピアノを教えに来てるのです。……さあ、やりましょう。」
「御親切ね!」とコレットは当惑して言った。――心のうちでは、かくひどい取り扱いを受けたのがうれしかった。
彼女はできるだけ努めて稽古《けいこ》の曲を弾《ひ》いた。そして器用だったので、かなりにひけたし、時とすると上手《じょうず》にひけることもあった。クリストフはそれにごまかされはしなかった。「何にも感じていないくせに、よく感じてるかのようなひき方をしてる、このずるい小娘」の巧みさを、心の中で笑っていた。それでもやはり、心うれしい同情を感じないでもなかった。コレットの方では、ピアノの稽古《けいこ》よりも話の方がずっと面白かったので、あらゆる口実を捜しては話をしようとした。クリストフは、思ってることを言えば不快を与える恐れがあるという口実で、話をすまいとしたが駄目《だめ》だった。彼女はいつでも彼に思ってることを言わしてしまった。そしてそれがひどいことであればあるほど、ますます彼女は腹をたてなかった。彼女にとっては一つの娯楽だった。しかしこの機敏な小娘は、クリストフが誠実を最も愛してることを感じていたので、勇ましく言いさからって、頑固《がんこ》に議論をした。そして二人はいつも仲よく別れた。
けれどももしそのままでいったら、クリストフはかかる客間的な友誼《ゆうぎ》になんらの幻をもかけなかったろうし、少しの親交も二人の間には生じなかったろう。ところがある日コレットは、誘惑したい本能と不意の出来心とで、彼にいろんなことをうち明けた。
前日、彼女の両親は自宅で招待会を催した。彼女は狂人のように笑いしゃべりふざけた。しかし翌朝になって、クリストフが稽古を授けに来た時には、彼女はがっかりして、顔だちにはしまりがなく、顔色は曇り、不機嫌《ふきげん》だった。ろくに口もき
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