衆に通例の才知をもって迎えられた。その晩餐《ばんさん》の席で出会ったのは銀行家、技師、新聞記者、国際的仲介人、アルジェリアの黒奴《こくど》売買人的な者ども――すべてフランス共和国の実務家らであった。彼らは明敏で精力家で、他人には無頓着《むとんじゃく》で、微笑をたたえ、腹蔵なきふりをし、しかも腹の底を堅く閉ざしていた。クリストフは、肉と花とを積んだ豪奢《ごうしゃ》な食卓のまわりに集まってるそれらの人々の、過去と未来とのうちに、そのきびしい額《ひたい》の下に、種々の罪悪が潜んでるように感ずることがあった。ほとんどすべての者が醜かった。しかし婦人の連中は、全体として見ると、かなり光っていた。あまり近寄ってながめてはいけなかった。多くは線や色の繊麗さを欠いでいた。しかし光輝はそなえていて、かなり強烈な物質的生気をもった風貌《ふうぼう》、見せつけがましく傲然《ごうぜん》と差し出してる美しい肩、その美やまたは醜をも、男子をとらえる罠《わな》となすだけの才能、などをもっていた。美術家だったら、ローマ式の古い型、ネロやハドリアヌス時代の婦人を、彼女らのうちのある者に見出したであろう。また、肉感的な表情をし重々しい頤《あご》がしっかりと首にくっついていて、獣的な美がないでもない、パルマ式な顔も見られた。またある者は、房々《ふさふさ》とした縮れ毛と、燃えるような果敢な眼とをもっていた。よく観察すると、そういう女らは慧敏《けいびん》で、鋭利で、万事にゆきわたり、他の女よりもさらに男らしく、それでもまたさらに女性であった。またかかる連中の間に、あちらこちらに、いっそう霊的な顔が際《きわ》だっていた。その清純な顔だちは、ローマを越えて、ラバンの国へまでさかのぼるものであった。静寂の詩が、砂漠《さばく》の諧調《かいちょう》が、その顔には感ぜられた。しかしクリストフはそばに寄っていって、このレベッカのような婦人が、ローマのファウスチナやヴェニスの聖バルブなどのような婦人とかわす言葉を聞いた時、それもやはり他の者らと同じく、ユダヤ系のパリー女にすぎないことを知った。しかも本来のパリー女よりいっそうパリー的で、いっそう技巧的であり作り物であって、マドンナのような眼で人々の魂や身体を赤裸に看破しながら、平気な意地悪を言っていた。
クリストフはどの連中にも仲間入りすることができずに、一つの連中から他の連中へとさまよい歩いた。男子らは、獰猛《どうもう》な調子で狩猟の話をし、粗暴な調子で恋愛の話をし、ただ金銭のことだけは、冷静な嘲笑《ちょうしょう》的な正確さで話していた。喫煙室で用件を書き取っていた。一輪の薔薇《ばら》をボタンの穴にさして、重々しい喉声《のどごえ》の愛嬌《あいきょう》をふりまきながら、女たちの椅子《いす》から椅子へと歩き回ってる色男について、次のような言葉をクリストフは耳にした。
「なに、彼奴《あいつ》は自由な身になったのか。」
客間の片隅《かたすみ》では、若い女優や貴婦人の情事について、二人の婦人が話し合っていた。時々音楽の演奏が催されることもあった。クリストフは演奏を求められた。女流詩人らが息を切らし汗を流しながら、シュリー・プリュドンムやオーギュスト・ドルシャンの詩句を、朦朧《もうろう》たる調子で誦《しょう》した。ある名高い大根役者が来て、天国的なオルガン伴奏につれて、神秘なる譚歌[#「神秘なる譚歌」に傍点]をおごそかに吟じた。しかしその音楽も詩句もあまりに馬鹿げていたので、クリストフは気色が悪くなった。しかしそれらローマ型の婦人らは非常に愉快がって、みごとな歯並みを見せながら心から笑っていた。またイプセンの物が演ぜられることもあった。社会の柱たる人々にたいする偉人の争闘が、これらの婦人たちの慰みとなったのは、面白い結末と言うべきである。
次に彼らは皆、芸術談をなす義務があるかのようにおのずから信じていた。それは実にたまらないことだった。ことに婦人らは、昵懇《じっこん》や礼儀や退屈や愚蒙などのために、イプセン、ワグナー、トルストイ、などの話を始めるのであった。一度会話がこの方面に向かってくると、もう引き止める術《すべ》がなかった。その病癖は感染していった。銀行家や仲買人や奴隷売買人らの芸術観を、聞かなければならなかった。クリストフは、返答を避け話頭をそらそうとつとめたが無駄《むだ》だった。彼らは競うて、音楽や高級の詩の話をもちかけてきた。ベルリオーズが言ったように、「その連中はきわめて冷静にそういう言葉を使った。あたかも酒や女やまた他のくだらない事柄をでも話すように。」ある精神病専門の医者は、イプセンの女主人公のうちに、自分の患者の一人の姿を、その方がはるかに馬鹿ではあったが、認めていた。一人の技師は、人形の家[#「人形の家」に傍点]の中で同情し得られる人物は夫であると、本気で断言していた。名高い大根役者――著名な喜劇役者――は、ニーチェやカーライルに関して、深奥な思想を震え声で口ごもっていた。ベラスケス――(それは当時の神であった)――の絵を見るといつでも、「大粒の涙が頬《ほお》に流れざるを得ない」と、彼はクリストフに話してきかした。それでも彼のうち明け話――やはりクリストフにたいしての――によれば、彼はいかに芸術を高位にすえるにしても、実人生の芸術を、行為を、さらに高位にすえていて、もし演じたい役割を選ぶとすれば、ビスマルクの役を選びたがっていた。また時々一座の中には、いわゆる才人が交っていた。しかしそのために会話が明らかに高尚となるようなことはなかった。彼らが言ってるつもりでいる事や現に言ってる事などを、クリストフはよくあらためてみた。するとたいてい彼らは、何にも言っていないことが多かった。謎《なぞ》めいた微笑を浮かべて満足しきっていた。自分の名声だけで生きていて、それを損じないようにしていた。また弁舌家もいた。たいてい南欧の者だった。この連中はどんなことでも話した。価値にたいする感じを具えていなかった。すべてを同一の平面に置いていた。シェイクスピヤ気取りの者もいた。モリエール気取りの者もいた。あるいはイエス・キリスト気取りの者もいた。彼らはイプセンを子デューマに比較したり、トルストイをジョルジュ・サンドに比較したりした。そしてそれはもちろん、フランスがすべてを発明したのだということを示さんためにであった。普通彼らはどの外国語も知らなかった。しかしそれに困らされはしなかった。彼らが真実のことを言ってるかどうかは、その聴《き》き手にはどうでもいいことだった。大事なことは、面白くてできるだけ国民的自尊心におもねるような事柄を、口にするということだった。外国人は盛んにののしられていた! その時々の偶像を除けば。偶像と言えばグリーグ、ワグナー、ニーチェ、ゴーリキー、ダヌンチオ、だれであろうと、とにかく流行にとってその一つがいつも必要だった。ただし長つづきはしなかった。今日の偶像はいつか塵《ちり》箱に入れられるの運命にあった。
当時にあっては、偶像はベートーヴェンだった。ベートーヴェンが――いずくんぞ知らん――流行児だったのだ。少なくとも、上流人士と文学者との間ではそうだった。音楽家らの方は、フランスにおける芸術趣味の一の法則たるシーソー的な方法で、すぐにベートーヴェンから離れてしまっていた。フランス人は自分の考えを知るためには、まず隣人の考えを知りたがり、それによって、同じように考えるかあるいは反対に考えるかするものである。かくて、ベートーヴェンが広く知られてきたのを見ると、音楽家らのうちの最も秀《ひい》でた人々は、ベートーヴェンも自分らから見るとそう秀でた者ではないと考え始めた。彼らは世論に先んじようとしていて、決して世論のあとに従ってゆこうとはしなかった。世論に同意するよりはむしろ、それに背を向けたがっていた。それで彼らはベートーヴェンをもって、金切り声で叫ぶ聾の老人だとした。傾聴すべき道徳家ではあるかもしれないが、音楽家としては買いかぶられてるものだと、断定する者さえあった。――そういう悪い冗談は、クリストフの趣味に適しなかった。また上流人士の心酔もやはり彼を満足させなかった。もしベートーヴェンがその時パリーへ来たら、彼は当時の獅子《しし》となり得たであろう。惜しいかな彼は一世紀前に死んでいた。それにまた、感傷的な伝記によって世に広く知られてる、彼の生涯《しょうがい》の多少小説的な事情の方が、彼の音楽よりもさらに多く、この流行を助けていた。獅子のような顔つきをした彼の荒々しい面影は、小説的な顔だちとなされていた。婦人らは彼に同情を寄せていた。もし自分が彼を知っていたら彼をあれほど不幸にはさせなかったものをと、彼女らははばからず言っていた。そしてベートーヴェンがその言葉を真面目《まじめ》に取るの恐れがなかっただけに、なおさら彼女らはその寛大な心をささげようとしていた。がこの好々爺《こうこうや》はもはや故人となって、何物をも求めてはいなかったのである。――それゆえに、名手や管弦楽長や劇場主らは、多くの憐憫《れんびん》を彼にかけてやっていた。そしてベートーヴェンの代表者だという資格で、ベートーヴェンにささげられた敬意を身に引き受けていた。ごく高価な華麗な大音楽会は、上流人士らに、その寛仁さを示す機会を与えていた。――時としてはまた、ベートーヴェンの交響曲《シンフォニー》を発見する機会を与えていた。俳優や軽薄才子や遊蕩《ゆうとう》者や、芸術の運命を監理するの任をフランス共和国から帯びせられた政治家、そういう連中から成る委員らが、ベートーヴェンの記念碑建設の計画を、世間に発表していた。ベートーヴェンが生きていたらその足下に踏みにじられそうな下劣な連中が、かつぎ上げられてる若干のりっぱな人物とともに、その名簿に名を連ねていた。
クリストフはながめまた聴いていた。悪口を言うまいと歯をくいしばっていた。そんな晩じゅう、気を張りつめ身体をひきつらしていた。口をきくことも黙ってることもできなかった。愉快からでもなくまた必要からでもなく、口をきかなければいけないという礼儀から口をきくことは、彼には卑しい恥ずかしいことのように思われた。心底の考えを口に出すことは、彼に許されなかった。つまらないお座なりを言うことは、彼にはできない業だった。しかも黙っていて礼を失《しっ》しないだけの才能を、彼はもっていなかった。隣席の人をながめるにしても、あまりにじっと見つめるのであった。彼はわれ知らず隣席の人を研究してるのであって、向こうはそれを不快に感じた。口をきけば、自分の言うところをあまりに信じすぎていた。それは皆のものにとって、また彼自身にとっても、気まずいことだった。彼は自分の来るべき場所でないことをよく知っていた。そして相当に怜悧《れいり》で、一座の調子が合ってるのを感ずることができ、自分が交ってるためにその調子が狂ってるのを感ずることができたので、来客らと同じように自分でも自分の態度が気にくわなかった。彼はみずから自分を恨みまた他人を恨んでいた。
真夜中ごろついに街路に出て一人っきりになると、厭《いや》で厭でたまらなくて、歩いて帰るだけの力がなかった。昔少年名手であったころ、大公爵邸の演奏から帰る途中、幾度もしたがったと同じように、往来のまん中に寝そべってしまいたかった。時とすると、一週間の間五、六フランしかもたないにもかかわらず、その二フランを馬車に費やしてしまうこともあった。早く逃げ出すために急いで馬車に飛び乗るのだった。馬車に運ばれながらがっかりして嘆息していた。家に帰っても寝床の中で、眠りながら嘆息していた……。それから突然、おかしな言葉を思い出して放笑《ふきだ》した。その身振りを真似《まね》て言葉をくり返しながら、自分でもびっくりした。翌日、または数日後、一人で歩き回りながら、にわかに獣のように唸《うな》り出すことがあった。……なぜああいう連中に会いに行くのか? なぜ彼らに会いにまたやって行くのか? 他人と同様に身振りをししかめ顔
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