かなかった。気力つきた様子をしていた。彼女はピアノにつき、力ないひき方をし、経過句を間違え、やり直し、また間違え、突然ひきやめ、そして言った。
「できません……ごめんなさい……少し待ってちょうだいな……。」
気分が悪いのかと彼は尋ねた。彼女はいいえと答えた。
――気が向かないのであった……そんなことがよくあった……ほんとに妙だった。怒られるようなことではなかった。
彼はまた他の日に来ようと言った。しかし彼女はいてくれと頼んだ。
「ちょっとの間ですわ……じきによくなるでしょうから……ほんとに私|馬鹿《ばか》ですわね。」
いつもの彼女でないことを彼は感じた。しかしその訳を尋ねたくなかった。そして話を転ずるつもりで言った。
「昨晩あんなに華《はな》やかに振舞ったからでしょう。あまり元気を使いすぎましたね。」
彼女は皮肉な微笑《ほほえ》みをちょっと浮かべた。
「あなたはそうじゃありませんでしたわね。」と彼女は答えた。
彼は率直に笑った。
「あなたは一言《ひとこと》も口をおききなさらなかったのね。」と彼女は言いつづけた。
「ええ一言も。」
「でも面白い方がいましたわ。」
「ええ、すてきな饒舌家《おしゃべり》だの才子だのが。なんでも理解し、なんでも説明し、なんでも見のがし――何にも感じない、骨抜きのフランス人たちの間にはいって、私はまごついてしまいましたよ。幾時間もたてつづけに、恋愛や芸術の話をするような連中でしたね。たまらないじゃありませんか。」
「でもあなたには面白かったはずだと思いますわ、恋愛かさもなくば芸術の話が。」
「そんなことは話すべきものではなくて、なすべきものです。」
「だって、なすことができなければ?」とコレットはちょっと口をとがらして言った。
クリストフは笑いながら答えた。
「その時は他人に任せるまでです。万人が芸術のために生まれてるのではありません。」
「恋愛のためにも?」
「恋愛のためにもです。」
「つまらないわね。では私たちには何が残るんでしょう。」
「家事があります。」
「ありがとうよ!」とコレットは不快げに言った。
彼女はまたピアノに手を置き、ふたたびやってみ、ふたたび経過句を間違え、鍵《キー》をうちたたき、そして嘆息した。
「できません。……私はまったく何をやっても駄目ね。あなたのおっしゃるのがもっともですわ。女はなんの役にもたちませんわ。」
「そう言うのは多少いいことです。」とクリストフは純朴《じゅんぼく》な調子で言った。
彼女はしかられてる小娘のような極《きま》り悪げな様子で彼をながめ、そして言った。
「そんなに手《て》きびしくおっしゃるものではありませんわ。」
「私は善良な婦人の悪口を言ってるのではありません。」とクリストフは快活に答え返した。「善良な婦人は地上の楽園です。ただ、地上の楽園は……。」
「そうよ、だれも見たことがありませんわ。」
「私はそれほど悲観してもいません。私が言いたいのは、この私が見たことがないというのです。しかしそれは存在するかもしれません。存在してるなら見出したいものだとさえ思っています。ただ、見出すのが容易でないのです。善良な婦人と天才の男子とは、いずれも滅多にありません。」
「そしてその二つを除くと、他《ほか》の男や女は皆物の数にはいりませんか。」
「いやかえって、そういう男女こそ、物の数にはいるのです……世間にとっては。」
「でもあなたにとっては?」
「私にとっては、ないも同じです。」
「ほんとに手きびしい方ね!」とコレットはくり返した。
「少々です。少しは手きびしい者もいなくちゃいけません。もちろん他人に関してです。……もしところどころに小石が少し交っていなければ、世の中はぐずぐずになってしまうでしょう。」
「ええ、もっともですわ。あなたは強いから仕合わせですわ。」とコレットは悲しげに言った。「でも強くない人たちには――ことに女には、あまり厳格になすってはいけません……。私たちが自分の弱さをどんなに苦しんでるか、御存じないでしょう。なぜって、私たちが笑ったりふざけたり小賢《こざか》しいことをやったりしてるのを見て、あなたは私たちの頭にはそれ以外に何にもないと考えて、私たちを軽蔑《けいべつ》なすってるじゃありませんか。社交界に出て、そのあふれるような活気である種の成功をかち得る、十五から十八くらいの娘の頭に、どんなことが浮かんでいるか、それをあなたが読み取ってくだすったら! もちろん、よく踊ったり、つまらないことや、間違ったことや、苦々《にがにが》しいことなどを言って、自分でも笑ってるので他人をも笑わせますし、またいくらかは馬鹿者どもの言うままになって、決して見出せないような光をめいめいの眼の底に捜し求めたりしますけれど、夜自分の家に帰って、ひっそりした居間の中にとじこもり、孤独の苦しみにひざまずいて祈る様子を、もしあなたが御覧なすったら!……」
「そんなこともあるんですか。」とクリストフはあきれたように言った。「え、苦しむことが、そんなに苦しむことが?」
コレットは答えなかった。しかし彼女の眼には涙が出て来た。彼女は微笑《ほほえ》もうとした。そしてクリストフに手を差し出した。彼は心を動かされてその手をとった。
「かわいそうに!」と彼は言った。「苦しいんなら、そんな生活から脱するために、なぜ何にもしないんです?」
「どうせよとおっしゃるのですか。どうにも仕方ないじゃありませんか。あなたがた男の方は、のがれることもできますし、なんでも勝手なことがおできになります。けれども私たちは、社交上の務めと楽しみの範囲内に、永久に閉じこめられています。それから出ることができません。」
「われわれ同様にあなたがたが自分を解放することを、だれが妨げるものですか。あなたがたが自分の好きな仕事をして、われわれのように独立できる仕事をするのを、だれが妨げるものですか。」
「あなたがたのようにですって? まあ、クラフトさん! あなたがたの仕事だって大して独立の助けになってはしませんわ。……でも、少なくともあなたがたは仕事を喜んでいらっしゃるんでしょう。ところが私たちは、どんな仕事に適してるんでしょうか? 気に入る仕事は一つだってありませんもの。
――そうですわ。私はよく知っています、私たちは今のところ何事にでも関係し、自分に無関係な多くの事柄に興味をもってるようなふうをしています。それほど何かに興味をもちたがっています。私だって同じですわ。救済事業に関係し、慈善会に関係しています。ソルボンヌ大学の講義、ベルグソンやジュール・ルメートルの講演、歴史協会、古典研究会、いろんなものに出ては、ノートばかり取っています……何を書いてるのか自分にもわかりません……そして無理にも、たいへん面白いと思い込もうとしたり、少なくとも有益だと思い込もうとしています。でも、その反対だということを私はよく知っています。そんなものは私にはどうでもいいことなんです。ほんとに退屈でたまりません!……ありふれた考えをそのまま言ってるきりだというので、私をまた軽蔑《けいべつ》なすってはいけませんよ。そりゃ私もやはり馬鹿ですわ。けれど、哲学だの歴史だの科学だのが、私になんの役にたつでしょう? 芸術についても――御承知のとおり――私はピアノをたたいたり、つまらないものを書き散らしたり、きたならしい水彩画をかいたりしています――でもそれで生活が充実するでしょうか? 私たちの生活には一つの目的があるばかりです、結婚という目的が。けれども、あなたと同じように私にもよくわかってる、あんな人たちのだれかと結婚するのが、愉快なことでしょうか? 私はあの人たちのありのままの姿を見て取っています。いつでも幻を描くことのできるドイツのグレートヘンたちのようには、私はなることができないのです。……恐ろしいことではありませんか、結婚した女たちや、その結婚の相手の男たちを、自分の周囲にながめて、自分もやがては同じようなことをし、身体や精神をゆがめ、その人たちのように平凡になってしまうのかと、考えてみますのは!……そんな生活やその義務などを甘受するには、確かに克己の精神が必要ですわ。ところがどんな女にもそれができるというわけにはゆきません。……そして時は過ぎてゆき、年は流れ去り、青春は去ってしまいます。それでも、美しいもの、善良なものが、私たちのうちにはあったんですのに――それさえもう、なんの役にもたたず、日に日に死んでゆき、馬鹿な人たちに、人に軽蔑《けいべつ》されまた私たちを軽蔑するような人たちに、我慢して与えてしまわなければならないでしょう。……そしてだれも私たちを理解してはくれません。女は男にとって謎《なぞ》だと言われるかもしれません。そして、私たちをつまらないおかしなものだと思うのも、男の方にはまだ許せます。けれども女の人は私たちを理解してくれてもいい訳です。自分でも私たちと同じだったことがあるんですもの。ただ昔のことを思いだすだけで足りるんですわ。……それなのにまるっきり駄目なんです。少しも力になってはくれません。母親でさえも私たちのことを知りません。ほんとうに私たちを知ろうともつとめません。ただ私たちを結婚させようとばかりしています。その他のことは、生きようと死のうと、勝手にするがいいというのです。社会は私たちをまったくうっちゃっておくのです。」
「力を落としてはいけません。」とクリストフは言った。「人は各自に人生の経験をやり直さなければなりません。勇気があれば万事うまくゆきます。あなたの世界以外に捜してごらんなさい。フランスにはまだりっぱな人が多少あるはずです。」
「あるにはありますわ。私の知ってる人にもありますわ。でも皆|厭《いや》な人ばかりですもの。……それに、ほんとのことを言いますと、自分の生きてる世界が私には不快なのです。けれども今ではもう、この世界を離れて生きられようとは私には思われません。習慣になってしまったのです。ある種の安楽と、それから、もちろん金では買えませんがしかし金がなければ得られない、贅沢《ぜいたく》と社交とのある精練さが、私には必要なのです。それがほんとうに輝かしいものでないことは、私も知っています。しかし私は自分自身をよく知っています。私は弱いんです。……ねえどうぞ、自分のつまらない卑怯《ひきょう》さを私がうち明けたからって、私から離れないでくださいね。私の言うことを快く聴いてくださいね。あなたと話すことはどんなにか私のためになるでしょう! あなたは強くて健全な方だと、私は感じていますの。あなたにすっかり信頼していますわ。少しは私の友だちにもなってくださいな、ねえ。」
「私も望むところです。」とクリストフは言った。「しかし私に何ができましょう?」
「私の言うことを聴いて、私に諭《さと》して、私に力をつけてください。私はむちゃくちゃになることがよくありますの。するともうどうしていいかわからなくなります。『争ったって何になろう? 苦しんだって何になろう? あれだってこれだって同じことだ。だれだって構わない、なんだって構わない!』と自分で考えます。ほんとに恐ろしい心ですわ。そんな心になりたくありません。私を助けてください、助けてくださいね!」
彼女はがっかりしたふうで、十歳も老《ふ》けたように見えた。従順な懇願的なやさしい眼で、クリストフをながめていた。彼は向こうの望みどおりにすべて誓ってやった。すると彼女は元気づき、笑《え》みを浮かべ、また快活になった。
そして晩には、彼女はいつものとおりに、笑ったりふざけたりしていた。
その日以来、二人はきまって親しい話をした。室には二人きりだった。彼女はなんでも思うまま彼へうち明けた。彼はそれを理解して助言してやるのに、たいへん苦心した。彼女はその助言に耳を傾け、場合によっては、ごくおとなしい小娘のように、叱責《しっせき》を真面目《まじめ》くさって注意深く聞いた。それは彼女にとって、憂《うさ》晴らしでもあり、面白くもあり、支持でさえもあっ
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