げん》を損じていた。
 停車場へはいりかけたとたんに、汽車は突然闇の中に止まった。クリストフは窓ガラスに顔を押しつけて、外を見ようとしたが何も見えなかった。彼は同乗客の方をふり向いて、話をしかけてもよさそうな、今どこだかということを尋ねてもよさそうな、眼つきを一つ捜し求めた。しかし彼らは不機嫌な退屈そうな様子で、うとうとしているか、あるいはそういうふうを装《よそお》っていた。停車の理由を知ろうと身動きする者もいなかった。クリストフはその不活発さに驚いた。それらの倣岸《ごうがん》冷静な人々は、彼が想像していたフランス人とは非常に違っていた。彼は汽車の揺れるたびによろめきながら、ついにがっかりしてかばんの上に腰をおろした。そしてこんどは自分がうとうとしていると、車室の扉《とびら》が開く音に眼を覚ました……。パリーだ!……。隣席の人々は降りかけていた。
 彼は人込みに押したり押されたりしながら、また、荷物をもとうと進み出る赤帽をしりぞけながら、出口の方へ進んでいった。田舎《いなか》者のように疑い深くなっていて、自分の品を盗もうとしてる者ばかりのように考えられた。たいせつなかばんを肩にかついで、小言《こごと》をくっても平気で人込みを押し分けながら、ずんずん歩いていった。そしてついに、パリーのねばねばした舗石路の上に出た。
 彼は自分の荷物のことや、これから選定する住居のことや、馬車の混雑の中に巻き込まれたことなどに、あまり気を取られていたから、何も見ようとは考えなかった。まず第一の仕事は、室を捜すことだった。旅館は不足していなかった。停車場の四方に立ち並んで、その名前がガス文字になって輝いていた。クリストフはなるべく光の薄いのを捜した。しかしどれも、彼の財布に適するほど下等ではなさそうだった。ついに彼はある横丁で、一階が飲食店になってる汚《きた》ない宿屋を見つけた。文明館[#「文明館」に傍点]という名だった。チョッキだけのでっぷりした男が、一つのテーブルでパイプを吹かしていた。クリストフがはいって来るのを見ると、その男は駆け寄ってきた。彼はクリストフの下手《へた》な言葉が少しもわからなかった。しかし一目見て、頓馬《とんま》な世慣れないドイツ人だと判断した。クリストフは彼に荷物を渡すのを拒んで、まるでなっていない言葉で意味を伝えようとしていた。彼はクリストフを案内して、臭い階段を通り、中庭に面してる風通しの悪い室へ通した。外の響きが達しない静かな室であることを自慢して、高い宿料を要求した。クリストフは、向こうの言うことがよくわからなかったし、パリーの生活状態を知らなかったし、肩は荷物で砕けそうになっていたので、すべてを承諾した。早く一人になりたかった。しかし一人になるや否や、物品の汚なさにびっくりした。そして、心に湧《わ》き上がってくる悲しみにふけらないため、にちゃにちゃする埃《ほこり》だらけの水に頭をひたしてから、急いで外に出かけた。嫌《いや》な気持からのがれるために、何にも見も感じもすまいとつとめた。
 彼は街路へ降りた。十月の霧は濃く冷やかだった。霧の中には、郊外の諸工場の悪臭と都会の重々しい息とが混和してる、パリーの嫌な匂《にお》いがこもっていた。十歩先はもう見えなかった。ガス燈の光は、消えかかった蝋燭《ろうそく》の火のように震えていた。薄暗い中を群集が、ごたごたこみ合って動いていた。馬車が行き違いぶつかり合って、堤防のように通路をふさぎ交通をせき止めていた。馬は凍った泥《どろ》の上を滑《すべ》っていた。御者のののしる声、らっぱの響き、電車の鉦《かね》の音が、耳を聾《ろう》するばかりの喧騒《けんそう》をなしていた。その音響、その動乱、その臭気に、クリストフはつかみ取られた。彼はちょっと立ち止まったが、すぐに、あとから来る人々に押され、流れに運ばれていった。ストラスブール大通りを下りながら、何にも眼にはいらず、へまに通行人へぶつかってばかりいた。彼は朝から物を食べていなかった。一歩ごとに珈琲店《カフェー》へ出会ったが、中に立て込んでる群集を見ては、気後《きおく》れがし嫌な心地になった。彼は巡査に尋ねかけた。しかし言葉を考え出すのにぐずぐずしていたので、巡査は終わりまで聞いてもくれずに、話の中途で肩をそびやかしながら向こうを向いた。クリストフは機械的に歩きつづけた。ある店先に人だかりがしていた。彼も機械的に同じく立ち止まった。それは写真や絵葉書の店だった。シャツ一枚のやまたはシャツもつけない女どもの姿が出ていた。絵入新聞には猥褻《わいせつ》な冗談が並んでいた。子どもや若い婦人らが平気でそれをながめていた。赤毛の痩《や》せた娘が、クリストフが見入っているのを見て、いろいろ申し込んできた。彼は意味がわからなくて彼女をながめた。彼女は愚かな微笑を見せて彼の腕を取った。彼は真赤《まっか》に憤って、彼女を振り離して遠ざかった。酒亭《しゅてい》がつづいていた。その入口には、奇怪な道化《どうけ》の広告が並んでいた。群集はますます立て込んできた。不徳そうな顔つき、いかがわしい漫歩者、卑しい賤民《せんみん》、白粉《おしろい》をぬりたてた嫌《いや》な匂いの女、などがあまり多いのにクリストフは驚いた。彼はぞっとした。疲労や無気力や恐ろしい嫌悪《けんお》に、ますますしめつけられて、眩暈《めまい》がしてきた。彼は歯をくいしばって足を早めた。セーヌ河に近づくに従って、霧はさらに濃くなってきた。馬車は抜け出せないほど輻輳《ふくそう》してきた。一頭の馬が滑って横に倒れた。御者はそれを立たせようとやたらに鞭《むち》打った。不幸な動物は、革紐《かわひも》にしめつけられて振るいたったが、痛ましくもまた下に倒れて、死んだようにじっと横たわった。このありふれた光景もクリストフにとっては、もうたまらなくなる最後の打撃だった。無関心な衆目環視の中におけるこの惨《みじ》めな動物の痙攣《けいれん》は、それら無数の人々の間にある自分自身のむなしさを、非常な苦しさで彼に感じさせたので、――また、家畜の群れのごときその群集にたいして、その汚れたる雰囲気《ふんいき》にたいして、その悪《にく》むべき精神状態にたいして、彼が一時間以来押えようとつとめていた嫌悪の情が、非常な激しさで破裂してきたので、彼は息がつけなくなった。彼は歔欷《きょき》の発作に襲われた。通行人らは、悲しみに顔をひきつらしてるこの大きな青年を、驚いてながめていった。彼は涙が頬《ほお》に流れても、拭《ぬぐ》おうともせずに歩きつづけた。人々はちょっと立ち止まって彼を見送った。彼がもし、敵意あるように思われるその群集の魂の中を、読み取ることができるのであったら、一つの親しい同情の念を――パリー人特有の皮肉が多少交ってはいたろうけれど――ある人々のうちにおそらく見出し得たであろう。しかし彼はもう何にも見ていなかった。涙のために眼がくらんでいた。
 彼はある広場の大きな泉のそばに出た。彼はその中に手をつけ顔を浸した。一人の新聞売りの小僧が嘲弄《ちょうろう》的ではあるが悪意はない気持で、彼の仕業《しわざ》を不思議そうにながめていた。そしてクリストフが落としてる帽子を拾ってくれた。水の凍るような冷たさに、クリストフはまた元気を得た。彼の気分は直った。彼は何にも見ないようにして足を返した。もう食べることも考えてはいなかった。だれにも話しかけることができないほどだった。ちょっとしたことにもまた涙が流れそうだった。彼は疲れはてていた。道を間違えて、やたらに歩き回り、ほんとに迷ってしまったと思ってるとたんに、宿屋の前へ出た。――彼は宿屋の町名まで忘れてしまっていた。
 彼は自分の汚ない住居へもどった。一日食事をしなかったので、眼は燃えるようになり、心も身体も弱りきっていて、室の隅《すみ》の椅子《いす》にがっくりと腰をおろした。二時間もそのままで身動きができなかった。ついに自失の状態からむりに身をもぎ離して、床についた。熱っぽい無感覚のうちに落ちて、幾時間も眠ったような気がしながらたえず眼を覚ました。室は息苦しかった。彼は足先から頭まで焼けるようだった。恐ろしく喉《のど》が渇《かわ》いていた。馬鹿《ばか》げた悪夢にとらえられて、眼を開いてる時でもそれにつきまとわれた。鋭い悩みがナイフで刺されるように身にしみた。真夜中に眼を覚まし、残忍な絶望の念に襲われて、喚《わめ》きたてようとした。その声を人に聞かれないようにと、夜具を口にいっぱい押し込んだ。狂人になるかと思われた。彼は寝床にすわって燈火をつけた。ぐっしょり汗をかいていた。彼は立ち上がって、かばんを開き、ハンカチを捜した。手は古い聖書《バイブル》にさわった。母がシャツの間に隠しておいてくれたものである。クリストフはこの書物をあまり読んだことがなかった。しかしただいまそれを見出して、なんとも言えない嬉《うれ》しさを感じた。この聖書は祖父のものであり、また曾祖父《そうそふ》のものでもあった。家長たちがそれぞれ、最後の一枚の白紙へ、自分の名前と、生涯《しょうがい》の重要な日付、誕生や結婚や死亡などを、書き込んでいた。祖父は鉛筆の大きな字体で、各章を読んだり読み返したりした日付を、書き入れていた。黄ばんだ紙片がいっぱい插《はさ》んであって、それには老人の質朴《しつぼく》な感想がしるされていた。この聖書は祖父の寝台の上の方に、棚《たな》に乗せられていた。祖父は長く眠れない時しばしばそれを取って、読むというよりはむしろ話し合っていた。それは曾祖父の友でもあったが、また同じく、祖父の終生の伴侶《はんりょ》でもあった。一家の悲喜哀楽の一世紀が、それから立ちのぼっていた。クリストフは今この書物といっしょにいると、いくらか孤独の感が薄らいだ。
 彼は最も痛ましいところを開いた。

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 それ人の世に在るは、絶えざる戦闘《たたかい》に在るがごとくならずや。またその日々は、傭人《やといびと》の日々のごとくならずや。……
 我|臥《ふ》せばすなわち言う、何時《いつ》我起きいでんかと。起きぬれば夕を待ちかねつ。夜まで苦しき思いに満てり。……
 わが牀《とこ》は我を慰め、休息《やすらい》はわが愁《うれ》いを和らげんと、我思いおる時に、汝は夢をもて我を驚かし、異象《まぼろし》をもて我を懼《おそ》れしめたまう。……
 何時《いつ》まで汝我を容《ゆる》したまわざるや。息をする間だに与えたまわざるや。我罪を犯したるか。我汝に何をなしたるか、おお人を護《まも》らせたまう者よ。……
 すべては同じきに帰す。神は善と悪とを共に苦しめたまう。……
 よしや我彼が御手に殺さるるとも、我はなお、彼に希《のぞ》みをかけざるを得ざるなり。……
[#ここで字下げ終わり]

 かかる無限の悲しみが不幸な者にたいしてなす恵みを、卑俗な心の人々は理解することができない。すべて偉大なるものは善良である。悲しみもその極度に達すれば、救済に到達する。人の魂を挫《くじ》き悩まし根柢から破壊するものは、凡庸《ぼんよう》なる悲しみや喜びである。失われた快楽に別れを告げる力もなく、あらゆる卑劣な行ないをして新たな快楽を求めんとひそかにたくらむ、利己的な浅薄な苦しみである。クリストフは古い書物から立ちのぼる苛辣《からつ》な息吹《いぶ》きに、元気づけられた。シナイの風が、寂寞《せきばく》たる曠野《こうや》と力強い海との風が、瘴癘《しょうれい》の気を吹き払った。クリストフの熱はとれた。彼はずっと安らかにふたたび床について、翌日まで一息に眠った。眼を覚ました時には、もう昼になっていた。室の醜さがさらにはっきり眼についた。自分の惨めさと孤独さとが感ぜられた。しかし彼はそれらをまともにながめやった。落胆は消えていた。もう男らしい憂鬱《ゆううつ》が残ってるのみだった。彼はヨブの言葉をくり返した。

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 よしや我神の御手に殺さるるとも[#「よしや我神の御手に殺さるるとも」に傍点]、我はなお[#「我はなお」に傍点]、神に[#「神に
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