ジャン・クリストフ
JEAN−CHRISTOPHE
第五巻 広場の市
ロマン・ローラン Romain Rolland
豊島与志雄訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)反《そ》るか
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)我|臥《ふ》せば
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]
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著者とその影との対話
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予 まさしく乗るか反《そ》るかの仕事だね、クリストフ。お前は俺《おれ》を全世界と喧嘩《けんか》させるつもりだったのか。
クリストフ まあ驚いた様子をするな。最初からお前は、どこへ俺が連れてゆくかを知ってたはずだ。
予 お前はあまり多くのことを非難する。敵を怒《おこ》らし、友だちに迷惑をかける。たとえば、いい家庭に何か悪いことが起こっても、そんな噂《うわさ》はしないのがよい趣味だということを、お前は知らないのか。
クリストフ しかたがないさ。俺には趣味なんかありはしない。
予 それは俺も知っている。お前はヒューロン人みたいだ。粗野な男だ。奴《やつ》らはお前を、全世界の敵だとするだろう。すでにお前はドイツで、反ドイツ主義者だとの評判を得ている。フランスでは、反フランス主義者、もしくは――この方がもっと重大だが――反ユダヤ主義者だとの評判を得るだろう。気をつけるがいい。ユダヤ人のことは一言も言うなよ……。
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汝《なんじ》は彼らより恩を受けたれば、その悪口を言わん術《すべ》なし……。
[#ここで字下げ終わり]
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クリストフ いいことも悪いことも、考えてることは皆、なぜ言っていけないのだ。
予 お前はとくに悪口を言いたがる。
クリストフ 賛辞はあとから来るんだ。キリスト教徒によりもユダヤ人に、いっそう遠慮をしなければならないという法があるものか。彼らに俺が十分のことをしてやるとすれば、それは彼らにそれだけの値打ちがあるからだ。俺は彼らに名誉の地位を与えてやらなければならない。なぜなら彼らは、わが西欧の先頭に立ってそれを占めたからだ。西欧では今光が消えかかり、彼らのある者はわが文明を滅ぼそうとしかけている。しかし俺は彼らのうちに、われわれの思想行為の宝の一つたるべき者らがあることを、知らないではない。この民族のうちには、まだ偉大なものがあることを、俺は知っている。彼らの多くがもっている、献身の力、傲慢《ごうまん》なる冷静、最善にたいする愛と欲求、不撓《ふとう》の精力、世に隠れたる執拗《しつよう》な労苦、それらをことごとく俺は知っている。彼らのうちに一つの神があることを、俺は知っている。それゆえに俺は、その神を否定した奴らを、堕落的な成功と卑しい幸福とのために、彼ら民衆の運動を裏切る奴らを、憎んでいるのだ。そういう奴らを攻撃するのは、奴らに対抗して彼ら民衆の味方をすることになるのだ。腐敗したフランス人どもを攻撃することによって、フランスを保護するのと、ちょうど同じことだ。
予 おい、お前は自分と無関係なことに干渉してるというものだ。スガナレルの細君のことを思い出すがいい。やたらに打たれるようなことばかりしたがったじゃないか。「木と指との間に……。」イスラエルの問題は、われわれに関したことじゃない。そしてフランスの問題の方は、フランスはマルティーヌのようなもので、やりこめられようと平気だ。しかしやりこめられたと人に言われることを許さない。
クリストフ それでも、真実を言ってきかせる必要がある、真実を愛すれば愛するほどなおさらだ。俺でなけりゃ、だれが真実を言う者があるか。――お前も駄目《だめ》だ。お前たちは皆、社会的関係、礼儀、配慮、などで相互に束縛されている。ところが俺は、なんらの束縛もないし、お前たちの仲間じゃない。お前たちの徒党のいずれにも属したことはないし、議論のいずれにも加わったことはない。お前たちと合唱しなければならない訳もなければ、お前たちと沈黙を共にしなければならない訳もない。
予 お前は外国人だ。
クリストフ そうだ、ドイツの一音楽家には、お前たちを批判する権利もなければ、お前たちを理解することもできないと、人は言うかもしれない。――よろしい、俺の方が間違ってるとしてみよう。しかし少なくとも、俺とともにお前も知っている外国のある偉い人々が――過去および現在の最も偉い人々が――お前たちのことをどう考えているか、それを俺は言ってやろう。たとい彼らが間違ってるとしても、彼らの思想は知るだけの価値がある。そしてお前たちに役だつかもしれない。いつもやるとおり、万人から賞賛されてると思い込んだり、自賛したり自卑したり――代わる代わるそんなことをするよりも、その方がやはりいいだろう。流行ででもあるように、その時々の発作に駆られて、俺たちは世界最大の民衆だと叫び、――または、ラテン民族の頽廃《たいはい》は救うべからざるものだと叫び、――あらゆる大思想はフランスから来ると叫び、――または、俺たちはもはやヨーロッパの慰みになるばかりだと叫んで、それがなんの役にたつか。身をかじってる病弊に眼を閉じないこと、民族の生命と名誉とのために戦うという感情から、圧倒されずにかえって激発されること、それが肝要だ。滅亡を欲しないこの民族の身体にはめ込まれてる魂を感じた者は、その悪徳と滑稽《こっけい》な点とを撲滅せんがため――ことにそれらを利用しそれらによって生きんとする奴らを撲滅せんがために、大胆にそれらを抉発《けっぱつ》して構わないのだ、抉発しなければならないのだ。
予 たといフランスを保護せんがためにもせよ、フランスに手を触るるな。お前は善良な人々の心を乱すだろう。
クリストフ 善良な人々――と言えばまあそうだ――人が万事をごく結構だと思わないのを、多くの悲しい醜い事柄を人から示されるのを、苦に病んでいる善良な人々! 彼ら自身こそ利用されているのだ。しかしそうだとは認めたくないのだ。他人のうちに悪を見て取るのが非常に心苦しいものだから、むしろみずから悪の犠牲となる方を好んでいる。少なくとも日に一度は、人からくりかえし説いてもらいたがっている、この最良の国民中ではすべてがいい方に向かっていると、また、
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「……おうフランスよ、汝は永《なが》く最上なるべし……」
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と。それを聞くと善良な人々は安心して、また眠りにつく――そして他の奴らは、また勝手なことをやりだすのだ。……善良なみごとな人々だ! 俺は彼らに心配をかけた。これからもなおさら心配をかけるだろう。彼らに許しを願っておく。……しかしながら、圧制者らに対抗して助けてもらうことを、彼らがたとい欲しないまでも、せめてこれだけは彼らに考えてほしい、彼らと同じように圧制されながら、彼らのような忍従と幻想の力とをもたない者が――またその忍従と幻想の力とによってかえって圧制者らの手に渡されてる者が、いくらもあるということを。そういう人々はいかに苦しんでいることだろう! お前も考えてみるがいい。いかにわれわれは苦しんだか! そしてまた、ますます重苦しい空気が、腐敗した芸術が、不道徳な卑しい政治が、満足の笑《え》みを浮かべて虚無の息吹《いぶ》きに身を任せる柔懦《じゅうだ》な思想が、日に日に積もってゆくのを見て、われわれとともにいかに多くの者が苦しんだか……。われわれはたがいに寄り添い、呼吸もできないほど苦しみながら、そういう中にじっとしていたのだ……。ああ、幾何《いくばく》の辛い年月をいっしょに過ごしてきたことだろう! わが権力者らは、彼らの下にわれわれの青春がもだえた苦悩を、夢にも知らないのだ……。われわれは抵抗した。われわれはみずから身を救った……。そして、今、われわれは他人を救わないでいいだろうか。こんどは他人が同じ苦しみのうちに陥ってるのを、手を差し出してもやらずに放《ほう》っておいていいだろうか。否、彼らの運命とわれわれの運命とは結び合わされている。われわれの仲間はフランスにたくさんいる。彼らは俺が声高く説くところのことを考えてくれる。俺は彼らのために説くつもりなのだ。やがて俺は彼らのことを口にするだろう。俺は早く示してやりたい、真のフランスを、圧制されたるフランスを、深きフランスを――ユダヤ人、キリスト教徒、あらゆる信仰と血統とを超越した自由な魂を。――しかしながら、そこに達するためには、家の扉《とびら》を番してる奴らの間に一条の血路を、まず開かなければならない。無気力の状態から奮いたってついに牢獄《ろうごく》の壁を覆《くつがえ》すことを、この美しい捕虜《ほりょ》にできさしてやりたい! 彼はおのれの力をも敵の凡庸《ぼんよう》さをも知らないのだ。
予 お前の言うところはもっともだ。しかしお前が何をしようとも、憎むことだけは控えるがいい。
クリストフ 俺はなんらの憎悪《ぞうお》をもいだいてはしない。最も悪い奴らのことを考える時でさえ、奴らもやはり人間であって、われわれと同じく苦しんでおり、いつかは死んでゆくのだということを、俺はよく知っている。しかし奴らと闘《たたか》わなければならないのだ。
予 闘うことは、それがたとい善をなさんがためのものにせよ、悪をなすことなのだ。生きた一人の人間にでも苦痛を与えることがあるならば、その苦痛は、「芸術」――もしくは「人類」、などという美《うる》わしい偶像になさんとする善によって、償い得るものだろうか?
クリストフ お前がそういうふうに考えるならば、芸術を見捨てるがいい、そして俺をも見捨てるがいい。
予 いや、俺を見放すな。お前がいなかったら、俺はどうなるだろう?――しかし、平和はいつ来るのか。
クリストフ 獲得された時に来る。じきだ……じきだ……。頭の上をもう春の燕《つばめ》が飛んでるのを、ながめてみろ。
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[#「よろこびの季節告ぐる美わし燕の来るを吾《われ》見ぬ。」の楽譜(fig42594_01.png)入る]
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(よろこびの季節告ぐる美わし燕
来るを吾《われ》見ぬ。)
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クリストフ 夢想にふけるな。手を引いてやるから、来るがいい。
予 やむをえない、お前についてゆこう、俺の影よ。
クリストフ 俺たち二人のうちで、どちらが影なんだ?
予 お前はほんとうに大きくなった。見違えるくらいだ。
クリストフ 太陽《ひ》が傾いてきた。
予 俺はお前の子どもの時の方が好きだった。
クリストフ 行こう! もう昼間は数時間しかない。
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一九〇八年三月[#地から2字上げ]ロマン・ローラン
[#改丁]
一
秩序のうちの混乱。だらしのないぞんざいな鉄道駅員。規則に服従しながら規則に抗言する乗客。――クリストフはフランスにはいった。
税関吏の好奇心を満足さした後、彼はパリー行きの列車に乗った。夜の闇《やみ》は雨に濡《ぬ》れた野を覆《おお》うていた。駅々の荒い燈火は、闇に埋もれてる涯《はて》しない平野の寂しさを、さらに侘《わ》びしくてらし出していた。行き違う列車はますます数多くなって、その汽笛で空気をつんざき、うとうとしてる乗客の眠りを覚《さ》まさした。もうパリーに近づいていた。
到着する一時間も前から、クリストフは降りる用意をしていた。帽子を眼深《まぶか》に被《かぶ》った。パリーにはたくさんいると聞いていた盗人を気づかって、首のところまで服のボタンをかけた。幾度も立ったりすわったりした。網棚《あみだな》と腰掛とに幾度もかばんを置き代えた。そのたびごとにいつもの無器用さから、隣席の客にぶつかってはその機嫌《き
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