「芸術」――もしくは「人類」、などという美《うる》わしい偶像になさんとする善によって、償い得るものだろうか?
クリストフ お前がそういうふうに考えるならば、芸術を見捨てるがいい、そして俺をも見捨てるがいい。
予 いや、俺を見放すな。お前がいなかったら、俺はどうなるだろう?――しかし、平和はいつ来るのか。
クリストフ 獲得された時に来る。じきだ……じきだ……。頭の上をもう春の燕《つばめ》が飛んでるのを、ながめてみろ。
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[#「よろこびの季節告ぐる美わし燕の来るを吾《われ》見ぬ。」の楽譜(fig42594_01.png)入る]
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(よろこびの季節告ぐる美わし燕
来るを吾《われ》見ぬ。)
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クリストフ 夢想にふけるな。手を引いてやるから、来るがいい。
予 やむをえない、お前についてゆこう、俺の影よ。
クリストフ 俺たち二人のうちで、どちらが影なんだ?
予 お前はほんとうに大きくなった。見違えるくらいだ。
クリストフ 太陽《ひ》が傾いてきた。
予 俺はお前の子どもの時の方が好きだった。
クリストフ 行こう! もう昼間は数時間しかない。
[#ここで字下げ終わり]
一九〇八年三月[#地から2字上げ]ロマン・ローラン
[#改丁]
一
秩序のうちの混乱。だらしのないぞんざいな鉄道駅員。規則に服従しながら規則に抗言する乗客。――クリストフはフランスにはいった。
税関吏の好奇心を満足さした後、彼はパリー行きの列車に乗った。夜の闇《やみ》は雨に濡《ぬ》れた野を覆《おお》うていた。駅々の荒い燈火は、闇に埋もれてる涯《はて》しない平野の寂しさを、さらに侘《わ》びしくてらし出していた。行き違う列車はますます数多くなって、その汽笛で空気をつんざき、うとうとしてる乗客の眠りを覚《さ》まさした。もうパリーに近づいていた。
到着する一時間も前から、クリストフは降りる用意をしていた。帽子を眼深《まぶか》に被《かぶ》った。パリーにはたくさんいると聞いていた盗人を気づかって、首のところまで服のボタンをかけた。幾度も立ったりすわったりした。網棚《あみだな》と腰掛とに幾度もかばんを置き代えた。そのたびごとにいつもの無器用さから、隣席の客にぶつかってはその機嫌《きげん》を損じていた。
停車場へはいりかけたとたんに、汽車は突然闇の中に止まった。クリストフは窓ガラスに顔を押しつけて、外を見ようとしたが何も見えなかった。彼は同乗客の方をふり向いて、話をしかけてもよさそうな、今どこだかということを尋ねてもよさそうな、眼つきを一つ捜し求めた。しかし彼らは不機嫌な退屈そうな様子で、うとうとしているか、あるいはそういうふうを装《よそお》っていた。停車の理由を知ろうと身動きする者もいなかった。クリストフはその不活発さに驚いた。それらの倣岸《ごうがん》冷静な人々は、彼が想像していたフランス人とは非常に違っていた。彼は汽車の揺れるたびによろめきながら、ついにがっかりしてかばんの上に腰をおろした。そしてこんどは自分がうとうとしていると、車室の扉《とびら》が開く音に眼を覚ました……。パリーだ!……。隣席の人々は降りかけていた。
彼は人込みに押したり押されたりしながら、また、荷物をもとうと進み出る赤帽をしりぞけながら、出口の方へ進んでいった。田舎《いなか》者のように疑い深くなっていて、自分の品を盗もうとしてる者ばかりのように考えられた。たいせつなかばんを肩にかついで、小言《こごと》をくっても平気で人込みを押し分けながら、ずんずん歩いていった。そしてついに、パリーのねばねばした舗石路の上に出た。
彼は自分の荷物のことや、これから選定する住居のことや、馬車の混雑の中に巻き込まれたことなどに、あまり気を取られていたから、何も見ようとは考えなかった。まず第一の仕事は、室を捜すことだった。旅館は不足していなかった。停車場の四方に立ち並んで、その名前がガス文字になって輝いていた。クリストフはなるべく光の薄いのを捜した。しかしどれも、彼の財布に適するほど下等ではなさそうだった。ついに彼はある横丁で、一階が飲食店になってる汚《きた》ない宿屋を見つけた。文明館[#「文明館」に傍点]という名だった。チョッキだけのでっぷりした男が、一つのテーブルでパイプを吹かしていた。クリストフがはいって来るのを見ると、その男は駆け寄ってきた。彼はクリストフの下手《へた》な言葉が少しもわからなかった。しかし一目見て、頓馬《とんま》な世慣れないドイツ人だと判断した。クリストフは彼に荷物を渡すのを拒んで、まるでなっていない言葉で意味を伝えようとしていた。彼はクリストフを案内して、臭い階
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