段を通り、中庭に面してる風通しの悪い室へ通した。外の響きが達しない静かな室であることを自慢して、高い宿料を要求した。クリストフは、向こうの言うことがよくわからなかったし、パリーの生活状態を知らなかったし、肩は荷物で砕けそうになっていたので、すべてを承諾した。早く一人になりたかった。しかし一人になるや否や、物品の汚なさにびっくりした。そして、心に湧《わ》き上がってくる悲しみにふけらないため、にちゃにちゃする埃《ほこり》だらけの水に頭をひたしてから、急いで外に出かけた。嫌《いや》な気持からのがれるために、何にも見も感じもすまいとつとめた。
彼は街路へ降りた。十月の霧は濃く冷やかだった。霧の中には、郊外の諸工場の悪臭と都会の重々しい息とが混和してる、パリーの嫌な匂《にお》いがこもっていた。十歩先はもう見えなかった。ガス燈の光は、消えかかった蝋燭《ろうそく》の火のように震えていた。薄暗い中を群集が、ごたごたこみ合って動いていた。馬車が行き違いぶつかり合って、堤防のように通路をふさぎ交通をせき止めていた。馬は凍った泥《どろ》の上を滑《すべ》っていた。御者のののしる声、らっぱの響き、電車の鉦《かね》の音が、耳を聾《ろう》するばかりの喧騒《けんそう》をなしていた。その音響、その動乱、その臭気に、クリストフはつかみ取られた。彼はちょっと立ち止まったが、すぐに、あとから来る人々に押され、流れに運ばれていった。ストラスブール大通りを下りながら、何にも眼にはいらず、へまに通行人へぶつかってばかりいた。彼は朝から物を食べていなかった。一歩ごとに珈琲店《カフェー》へ出会ったが、中に立て込んでる群集を見ては、気後《きおく》れがし嫌な心地になった。彼は巡査に尋ねかけた。しかし言葉を考え出すのにぐずぐずしていたので、巡査は終わりまで聞いてもくれずに、話の中途で肩をそびやかしながら向こうを向いた。クリストフは機械的に歩きつづけた。ある店先に人だかりがしていた。彼も機械的に同じく立ち止まった。それは写真や絵葉書の店だった。シャツ一枚のやまたはシャツもつけない女どもの姿が出ていた。絵入新聞には猥褻《わいせつ》な冗談が並んでいた。子どもや若い婦人らが平気でそれをながめていた。赤毛の痩《や》せた娘が、クリストフが見入っているのを見て、いろいろ申し込んできた。彼は意味がわからなくて彼女をながめた。彼女は愚かな微笑を見せて彼の腕を取った。彼は真赤《まっか》に憤って、彼女を振り離して遠ざかった。酒亭《しゅてい》がつづいていた。その入口には、奇怪な道化《どうけ》の広告が並んでいた。群集はますます立て込んできた。不徳そうな顔つき、いかがわしい漫歩者、卑しい賤民《せんみん》、白粉《おしろい》をぬりたてた嫌《いや》な匂いの女、などがあまり多いのにクリストフは驚いた。彼はぞっとした。疲労や無気力や恐ろしい嫌悪《けんお》に、ますますしめつけられて、眩暈《めまい》がしてきた。彼は歯をくいしばって足を早めた。セーヌ河に近づくに従って、霧はさらに濃くなってきた。馬車は抜け出せないほど輻輳《ふくそう》してきた。一頭の馬が滑って横に倒れた。御者はそれを立たせようとやたらに鞭《むち》打った。不幸な動物は、革紐《かわひも》にしめつけられて振るいたったが、痛ましくもまた下に倒れて、死んだようにじっと横たわった。このありふれた光景もクリストフにとっては、もうたまらなくなる最後の打撃だった。無関心な衆目環視の中におけるこの惨《みじ》めな動物の痙攣《けいれん》は、それら無数の人々の間にある自分自身のむなしさを、非常な苦しさで彼に感じさせたので、――また、家畜の群れのごときその群集にたいして、その汚れたる雰囲気《ふんいき》にたいして、その悪《にく》むべき精神状態にたいして、彼が一時間以来押えようとつとめていた嫌悪の情が、非常な激しさで破裂してきたので、彼は息がつけなくなった。彼は歔欷《きょき》の発作に襲われた。通行人らは、悲しみに顔をひきつらしてるこの大きな青年を、驚いてながめていった。彼は涙が頬《ほお》に流れても、拭《ぬぐ》おうともせずに歩きつづけた。人々はちょっと立ち止まって彼を見送った。彼がもし、敵意あるように思われるその群集の魂の中を、読み取ることができるのであったら、一つの親しい同情の念を――パリー人特有の皮肉が多少交ってはいたろうけれど――ある人々のうちにおそらく見出し得たであろう。しかし彼はもう何にも見ていなかった。涙のために眼がくらんでいた。
彼はある広場の大きな泉のそばに出た。彼はその中に手をつけ顔を浸した。一人の新聞売りの小僧が嘲弄《ちょうろう》的ではあるが悪意はない気持で、彼の仕業《しわざ》を不思議そうにながめていた。そしてクリストフが落としてる帽子を拾ってくれた。水の凍るような冷た
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