さに、クリストフはまた元気を得た。彼の気分は直った。彼は何にも見ないようにして足を返した。もう食べることも考えてはいなかった。だれにも話しかけることができないほどだった。ちょっとしたことにもまた涙が流れそうだった。彼は疲れはてていた。道を間違えて、やたらに歩き回り、ほんとに迷ってしまったと思ってるとたんに、宿屋の前へ出た。――彼は宿屋の町名まで忘れてしまっていた。
 彼は自分の汚ない住居へもどった。一日食事をしなかったので、眼は燃えるようになり、心も身体も弱りきっていて、室の隅《すみ》の椅子《いす》にがっくりと腰をおろした。二時間もそのままで身動きができなかった。ついに自失の状態からむりに身をもぎ離して、床についた。熱っぽい無感覚のうちに落ちて、幾時間も眠ったような気がしながらたえず眼を覚ました。室は息苦しかった。彼は足先から頭まで焼けるようだった。恐ろしく喉《のど》が渇《かわ》いていた。馬鹿《ばか》げた悪夢にとらえられて、眼を開いてる時でもそれにつきまとわれた。鋭い悩みがナイフで刺されるように身にしみた。真夜中に眼を覚まし、残忍な絶望の念に襲われて、喚《わめ》きたてようとした。その声を人に聞かれないようにと、夜具を口にいっぱい押し込んだ。狂人になるかと思われた。彼は寝床にすわって燈火をつけた。ぐっしょり汗をかいていた。彼は立ち上がって、かばんを開き、ハンカチを捜した。手は古い聖書《バイブル》にさわった。母がシャツの間に隠しておいてくれたものである。クリストフはこの書物をあまり読んだことがなかった。しかしただいまそれを見出して、なんとも言えない嬉《うれ》しさを感じた。この聖書は祖父のものであり、また曾祖父《そうそふ》のものでもあった。家長たちがそれぞれ、最後の一枚の白紙へ、自分の名前と、生涯《しょうがい》の重要な日付、誕生や結婚や死亡などを、書き込んでいた。祖父は鉛筆の大きな字体で、各章を読んだり読み返したりした日付を、書き入れていた。黄ばんだ紙片がいっぱい插《はさ》んであって、それには老人の質朴《しつぼく》な感想がしるされていた。この聖書は祖父の寝台の上の方に、棚《たな》に乗せられていた。祖父は長く眠れない時しばしばそれを取って、読むというよりはむしろ話し合っていた。それは曾祖父の友でもあったが、また同じく、祖父の終生の伴侶《はんりょ》でもあった。一家の悲喜哀楽の一世紀が、それから立ちのぼっていた。クリストフは今この書物といっしょにいると、いくらか孤独の感が薄らいだ。
 彼は最も痛ましいところを開いた。

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 それ人の世に在るは、絶えざる戦闘《たたかい》に在るがごとくならずや。またその日々は、傭人《やといびと》の日々のごとくならずや。……
 我|臥《ふ》せばすなわち言う、何時《いつ》我起きいでんかと。起きぬれば夕を待ちかねつ。夜まで苦しき思いに満てり。……
 わが牀《とこ》は我を慰め、休息《やすらい》はわが愁《うれ》いを和らげんと、我思いおる時に、汝は夢をもて我を驚かし、異象《まぼろし》をもて我を懼《おそ》れしめたまう。……
 何時《いつ》まで汝我を容《ゆる》したまわざるや。息をする間だに与えたまわざるや。我罪を犯したるか。我汝に何をなしたるか、おお人を護《まも》らせたまう者よ。……
 すべては同じきに帰す。神は善と悪とを共に苦しめたまう。……
 よしや我彼が御手に殺さるるとも、我はなお、彼に希《のぞ》みをかけざるを得ざるなり。……
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 かかる無限の悲しみが不幸な者にたいしてなす恵みを、卑俗な心の人々は理解することができない。すべて偉大なるものは善良である。悲しみもその極度に達すれば、救済に到達する。人の魂を挫《くじ》き悩まし根柢から破壊するものは、凡庸《ぼんよう》なる悲しみや喜びである。失われた快楽に別れを告げる力もなく、あらゆる卑劣な行ないをして新たな快楽を求めんとひそかにたくらむ、利己的な浅薄な苦しみである。クリストフは古い書物から立ちのぼる苛辣《からつ》な息吹《いぶ》きに、元気づけられた。シナイの風が、寂寞《せきばく》たる曠野《こうや》と力強い海との風が、瘴癘《しょうれい》の気を吹き払った。クリストフの熱はとれた。彼はずっと安らかにふたたび床について、翌日まで一息に眠った。眼を覚ました時には、もう昼になっていた。室の醜さがさらにはっきり眼についた。自分の惨めさと孤独さとが感ぜられた。しかし彼はそれらをまともにながめやった。落胆は消えていた。もう男らしい憂鬱《ゆううつ》が残ってるのみだった。彼はヨブの言葉をくり返した。

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 よしや我神の御手に殺さるるとも[#「よしや我神の御手に殺さるるとも」に傍点]、我はなお[#「我はなお」に傍点]、神に[#「神に
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