回してる連中であった。
 通俗大学はまた、頽廃《たいはい》的な彫刻や詩や音楽など、極端に貴族的な審美主義のはけ口であった。人々は思想を若返らせ民族を再生させるために、民衆の君臨を望んでいた。そしてまず手始めに、ブールジョア階級の精練さを民衆に移し伝えていた。民衆はそれをむさぼるように受け取っていた。それが気に入ったからではなくて、それがブールジョア的なものだったからである。クリストフはある時、ルーサン夫人からそれら通俗大学の一つに案内されたが、そこで、ガブリエル・フォーレの優しき歌[#「優しき歌」に傍点]とベートーヴェンの晩年の四重奏曲の一つとの間にはさんで、ドビュッシーの作を彼女が民衆に演奏してきかせるのを聞いた。彼は趣味と思想との徐々の進歩につれて、幾年もの時日を経た後にようやく、ベートーヴェンの晩年の作が理解できるようになったのだった。それで彼は気の毒そうに隣席の一人に尋ねた。
「君にあれがわかりますか。」
 相手の男はあたかも怒った牡鶏《おんどり》のように憤然とした様子をして言った。
「わかるとも。君くらいには俺《おれ》にだってわからないことがあるものか。」
 そして、理解してることを証明するために、喧嘩《けんか》腰でクリストフをながめながら、一つの遁走《とんそう》曲を復吟した。
 クリストフは狼狽《ろうばい》して逃げ出した。あいつどもは国民の生きたる源泉をまで害毒してしまっている、と彼は考えた。もはやそこには民衆は存在しなかった。
「お前たちだって民衆だ!」と民衆劇場を建設しようと企ててるかかる善人どもの一人に、ある労働者が言った言葉どおりだった。「俺もお前たちと同じくブールジョアだぜ!」

 ある夕方、やや褪《あ》せた温《あたた》かい色彩の東方産の絨緞《じゅうたん》のような柔らかい空が、薄暗い都会の上に広がってる時、クリストフは河岸通りに沿って、ノートル・ダームからアンヴァリードの方へやって行った。たれこめてきた闇《やみ》の中には、戦いの最中に振り上げてるモーゼの腕のように、大寺院の塔がそびえていた。サント・シャペル会堂の黄金彫りの尖頂《せんちょう》が、花咲ける聖《きよ》き棘《いばら》が、立ち込んだ屋並みから突き出ていた。流れの彼方《かなた》には、ルーヴル美術館の厳《おごそ》かな正面が広げられていて、その退屈そうな小窓には、夕陽《ゆうひ》が生々とした残照を投げていた。廃兵院の広地の奥、その濠《ほり》や高い壁の後ろ、厳粛な寂寞《せきばく》さの中には、遠い昔の戦勝の交響曲のように、薄黒い金色の円《まる》屋根が浮き出していた。そして凱旋門《がいせんもん》は、勇敢なる進軍のように、帝国軍団の超人間的な大跨《おおまた》を、丘の上に踏み開いていた。
 クリストフはにわかに、巨人の死骸《しがい》の大なる手足が平野を覆《おお》うているような印象を受けた。彼は恐怖に胸迫って、そこに立ち止まりながらながめやった、地上から消え失《う》せた物語めいた巨人の化石を、かつては全世界がその足音を聞いた巨人の化石を。――それは、廃兵院の円屋根を頭にいただき、大堂宇の無数の腕で空を抱いてるルーヴル美術館を帯にまとい、ナポレオン凱旋門の堂々たる両足を世界に踏み広げてる、一民族であった。しかし今では、この凱旗門の踵《かかと》の下に、侏儒《しゅじゅ》どもが蠢動《しゅんどう》していた。

 クリストフは名声を求めはしなかったが、シルヴァン・コーンやグージャールから紹介されて、パリー社会にかなり知られていた。芝居の初日や音楽会などで、この二人の友人のいずれかといっしょにいつも見出せる、彼の顔つきの独特さ、またその非常な醜さ、その身体つきや服装や唐突《とうとつ》拙劣な素振りなどの滑稽《こっけい》さ、時々その口から漏れる矛盾した奇抜な言葉、垢《あか》ぬけはしていないがしかし広い強健な知力、また、ドイツでの脱走や官憲との喧嘩《けんか》やフランスへの逃亡などについて、シルヴァン・コーンがふれ歩いた小説的な物語、それらのものは、世界一家的な大客間となってるこの全パリーの、閑散でまたたえず働いてる好奇心の的と彼をなしてしまった。そして彼が、自己の意見を吐かずにただ観察し傾聴し理解に努力しながら、控え目にしてる間は、その作品や思想の根底が人から知られない間は、皆からかなりよく思われていた。フランス人らは彼がドイツにとどまっていられなかったことを幸いだとしていた。ことにフランスの音楽家らは、ドイツの音楽に関するクリストフの苛酷《かこく》な批判を、自分らになされた敬意ででもあるかのように感謝していた。――(それも実際はすでに陳腐《ちんぷ》な批判であって、彼自身ももはや今日では賛成できかねるようなものが多かった。そういう四、五の論説が近ごろドイツの一雑誌に掲げられたので、シルヴ
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