、船底|肱掛椅子《ひじかけいす》でいつまでも身体を揺り、「どう、そんなのないの?」などと小さな叫び声をたて、食卓で自分の好きな料理が出ると、両手をたたき、客間では、巻|煙草《たばこ》を吹かしてみ、男の前で女の友だちにたいする途方もない愛情の様子を見せ、その首に飛びつき、その手をなで、その耳にささやき、やさしい細い声で、無邪気なことを言い、また巧みに悪口をも言い、場合によっては、何気ないふうでごく際《きわ》どい事をも言い、またいっそうそれを人にも言わせ、――きわめておとなしい小娘のような清純な様子をし、重々しい眼瞼《まぶた》のある、肉欲的な陰険な輝いた眼で、狡猾《こうかつ》そうな横目を使い、あらゆる冗談を待ち受け、あらゆる猥《みだ》らな話を拾い取り、どこかで男の心を釣《つ》ろうとつとめていた。
 それらの猿《さる》知恵は、小犬のようなそれらの道化振りは、猫被《ねこかぶ》りのその無邪気さは、いかにしてもクリストフの気に入るはずがなかった。放縦《ほうじゅう》な娘の策略に巻き込まれたり、あるいは面白そうな眼でそれをながめることよりも、彼には他になすべきことがあった。彼はパンを得なければならなかった、自分の生命と思想とを死から救わなければならなかった。客間の鸚鵡《おうむ》たる彼女らから受ける唯一の利益は、この必要な方法を得るということだけだった。彼は金の代わりに彼女に、稽古《けいこ》を授けていた。額《ひたい》に皺《しわ》を寄せ、仕事に気をこめて、熱心にやりながら、仕事のつまらなさ加減のために気を散らされないようにし、またコレット・ストゥヴァンのように婀娜《あだ》っぽい弟子《でし》たちの揶揄《やゆ》のために、気を散らされないようにつとめていた。彼はコレットにたいしても、その小さな従妹《いとこ》にたいするくらいの注意をしか払っていなかった。この従妹というのは、黙った内気な十二歳の少女で、ストゥヴァン家に引き取られていたものであるが、やはりクリストフからピアノを教わっていた。
 しかしコレットはきわめて機敏だったので、自分の容色もクリストフにたいしては無駄《むだ》であると感ぜずにはいなかったし、またきわめて柔和だったので、一時彼のやり方に順応せずにはいなかった。彼女はそれをみずからつとめるにも及ばなかった。それは生来の一本能だった。彼女は女だった、形のない波のようなものだった。彼女が出会うあらゆる魂は、彼女にとっては器《うつわ》のようなもので、彼女は好奇心からまた必要から、すぐにその形をみずから取るのであった。存在せんがためには、いつも他の人となる必要があった。彼女の性格と言えば、一つの性格者でないということであった。彼女はしばしば自分の器を取り換えていた。
 クリストフは彼女をひきつけていた。それには多くの理由があったが、その第一のものは、彼が彼女からひきつけられていないということだった。なお他の理由としては、彼女の知ってるあらゆる青年と彼が異なってるからでもあった。こんな形のこんな粗暴な容器に、彼女はまだかつて順応しようとしたことがなかった。また最後の理由としては、彼女は容器や人々の正確な価値を一見して評価するのに、民族的な巧慧《こうけい》さをそなえていたから、クリストフには優雅な点はないが、骨董《こっとう》品的なパリー人の示すことのできない堅実さをもっているということを、完全に見て取ったからであった。
 彼女は現代の暇な若い娘の大多数と同じ調子で、音楽をやっていた。盛んにやるとともにほとんどやっていなかった。言い換えれば、常に音楽をやりながらほとんど何にも知らなかった。仕事がないために、様子ぶるために、楽しみのために、終日ピアノをたたきちらしていた。あるいは自転車をでも取扱うようなふうにやることもあった。あるいは趣味と魂とをこめてごくうまくひくこともあった。――(彼女は一つの魂をもってるとも言えるほどだった。しかしそれには、一つの魂をもってるだれかの地位に身を置けば十分なのであった)――彼女はクリストフを知る前には、マスネー、グリーグ、トーマ、などを好むこともできた。しかしクリストフを知ってからは、そういう人々をもう好まないこともできた。そして今ではバッハやベートーヴェンをごく正しくひいていた――(実を言えばそれは大したことでない)――しかしいいことには、彼女は彼らを好んでいた。が結局は、彼女が好んでいたものは、ベートーヴェンでもトーマでもバッハでもグリーグでもなかった。それは、音符をであり、音響をであり、鍵盤《けんばん》の上を走る自分の指をであり、神経の弦を刺激する弦の震えをであり、快感をそそるそのくすぐりをであった。
 貴族的な邸宅の客間の中は、やや色|褪《あ》せた壁布で飾られていて、室のまん中の画架の上には、強健なストゥヴァン夫人
前へ 次へ
全97ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング