の肖像がかかっていた。流行児の一画家が描いたもので、眼には光がなく、身体は螺旋《らせん》状にねじ曲げて、百万長者の魂の世に稀有《けう》なことを表現するため、あたかも水なき花のように、憔悴《しょうすい》した姿に描かれていた。ガラス窓の壁口からは、白雪を頂《いただ》いた老樹が見えていた。――その大きな客間の中に、いつもピアノにすわってるコレットを、クリストフは見出した。彼女は際限もなく同じ楽句をくり返し、柔らかな調子はずれの響きで耳を楽しませていた。
「ああ、」とクリストフははいりながら言った、「また猫《ねこ》が喉《のど》を鳴らしていますね。」
「いやな方《かた》!」と彼女は笑いながら言った。
(そして彼女はやや湿っぽい手を彼に差し出した。)
「……まあ聴《き》いてちょうだい。りっぱじゃありませんか。」
「たいへん結構です。」と彼は冷淡な調子で言った。
「聴いていらっしゃらないのね。……よく聴いてちょうだいよ!」
「聞いていますよ。……いつも同じものですね。」
「ああ、あなたは音楽家じゃないわね。」と彼女はむっとして言った。
「それでも音楽のつもりですか。」
「え、音楽じゃないんですって?……では、なんだとおっしゃるの?」
「御自分でよくわかってるでしょう。失礼に当たるから私の口からは言いますまい。」
「そんならなおおっしゃらなけりゃいけません。」
「言ってもらいたいんですか。……お気の毒さま!……いったいあなたは、ピアノを相手に何をしてるのか自分で知っていますか。……あなたはふざけてるんです。」
「まあ!」
「そうですとも。あなたはピアノにこう言っています、ピアノさん、ピアノさん、優しい言葉を聞かしてちょうだい、もっとよ、私をかわいがってちょうだい、ちょっとキスしてちょうだいよ!」
「もうたくさんよ!」とコレットは半ば笑い半ば怒《おこ》って言った。「あなたには人を尊敬する念が少しもないのね。」
「少しもありませんよ。」
「横柄《おうへい》な方ね。……それに第一もしそうだったとしても、それこそほんとうに音楽を愛する仕方ではありませんか。」
「ああ、お願いだから、音楽とそんなこととを混同しないでください。」
「でもそれが音楽ですわ。美しい和音は接吻《せっぷん》と同じですもの。」
「そんなことをあなたに教えた覚えはありません。」
「でもほんとにそうじゃありませんか……。なぜ肩を怒らしなさるの。なぜ顔をしかめなさるの?」
「不快だからです。」
「まあひどいわ。」
「不品行の話でもするような調子で、音楽のことを言われるのを聞くのは、私は不快です。……しかし、それはあなたが悪いのではない。あなたの世界が悪いからです。あなたをとり巻いてるこの無趣味な社会は、芸術を一種の許された道楽だと見なしている。……さあ、おすわりなさい。奏鳴曲《ソナタ》をひいてごらんなさい。」
「でも、もう少し話しましょう。」
「私は話をしに来てるのではありません。ピアノを教えに来てるのです。……さあ、やりましょう。」
「御親切ね!」とコレットは当惑して言った。――心のうちでは、かくひどい取り扱いを受けたのがうれしかった。
 彼女はできるだけ努めて稽古《けいこ》の曲を弾《ひ》いた。そして器用だったので、かなりにひけたし、時とすると上手《じょうず》にひけることもあった。クリストフはそれにごまかされはしなかった。「何にも感じていないくせに、よく感じてるかのようなひき方をしてる、このずるい小娘」の巧みさを、心の中で笑っていた。それでもやはり、心うれしい同情を感じないでもなかった。コレットの方では、ピアノの稽古《けいこ》よりも話の方がずっと面白かったので、あらゆる口実を捜しては話をしようとした。クリストフは、思ってることを言えば不快を与える恐れがあるという口実で、話をすまいとしたが駄目《だめ》だった。彼女はいつでも彼に思ってることを言わしてしまった。そしてそれがひどいことであればあるほど、ますます彼女は腹をたてなかった。彼女にとっては一つの娯楽だった。しかしこの機敏な小娘は、クリストフが誠実を最も愛してることを感じていたので、勇ましく言いさからって、頑固《がんこ》に議論をした。そして二人はいつも仲よく別れた。

 けれどももしそのままでいったら、クリストフはかかる客間的な友誼《ゆうぎ》になんらの幻をもかけなかったろうし、少しの親交も二人の間には生じなかったろう。ところがある日コレットは、誘惑したい本能と不意の出来心とで、彼にいろんなことをうち明けた。
 前日、彼女の両親は自宅で招待会を催した。彼女は狂人のように笑いしゃべりふざけた。しかし翌朝になって、クリストフが稽古を授けに来た時には、彼女はがっかりして、顔だちにはしまりがなく、顔色は曇り、不機嫌《ふきげん》だった。ろくに口もき
前へ 次へ
全97ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング