世間に発表していた。ベートーヴェンが生きていたらその足下に踏みにじられそうな下劣な連中が、かつぎ上げられてる若干のりっぱな人物とともに、その名簿に名を連ねていた。
クリストフはながめまた聴いていた。悪口を言うまいと歯をくいしばっていた。そんな晩じゅう、気を張りつめ身体をひきつらしていた。口をきくことも黙ってることもできなかった。愉快からでもなくまた必要からでもなく、口をきかなければいけないという礼儀から口をきくことは、彼には卑しい恥ずかしいことのように思われた。心底の考えを口に出すことは、彼に許されなかった。つまらないお座なりを言うことは、彼にはできない業だった。しかも黙っていて礼を失《しっ》しないだけの才能を、彼はもっていなかった。隣席の人をながめるにしても、あまりにじっと見つめるのであった。彼はわれ知らず隣席の人を研究してるのであって、向こうはそれを不快に感じた。口をきけば、自分の言うところをあまりに信じすぎていた。それは皆のものにとって、また彼自身にとっても、気まずいことだった。彼は自分の来るべき場所でないことをよく知っていた。そして相当に怜悧《れいり》で、一座の調子が合ってるのを感ずることができ、自分が交ってるためにその調子が狂ってるのを感ずることができたので、来客らと同じように自分でも自分の態度が気にくわなかった。彼はみずから自分を恨みまた他人を恨んでいた。
真夜中ごろついに街路に出て一人っきりになると、厭《いや》で厭でたまらなくて、歩いて帰るだけの力がなかった。昔少年名手であったころ、大公爵邸の演奏から帰る途中、幾度もしたがったと同じように、往来のまん中に寝そべってしまいたかった。時とすると、一週間の間五、六フランしかもたないにもかかわらず、その二フランを馬車に費やしてしまうこともあった。早く逃げ出すために急いで馬車に飛び乗るのだった。馬車に運ばれながらがっかりして嘆息していた。家に帰っても寝床の中で、眠りながら嘆息していた……。それから突然、おかしな言葉を思い出して放笑《ふきだ》した。その身振りを真似《まね》て言葉をくり返しながら、自分でもびっくりした。翌日、または数日後、一人で歩き回りながら、にわかに獣のように唸《うな》り出すことがあった。……なぜああいう連中に会いに行くのか? なぜ彼らに会いにまたやって行くのか? 他人と同様に身振りをししかめ顔をし、面白くもないことに面白がってるふうをすることが、なぜ余儀ないのか?――面白くないというのはほんとうなのか?――一年前だったら、彼はかかる仲間には我慢ができなかったはずである。しかし今や、彼らは彼をいらだたせながらも実は面白がらせていた。パリー風の無関心さが多少彼のうちにしみ込んできたのか? 彼は不安の念をもって、自分が弱くなったのではないかと怪しむこともあった。しかし反対に、彼はいっそう強くなったのだった。他国の社会において、彼の精神はいっそう自由になったのだった。彼の眼はわれにもあらず、世間の大喜劇に向かって開かれていた。
そのうえ、芸術家を知るにつれてその作品に興味をもちだしてくるこのパリーの社会から、自分の芸術が知られんことを望むならば、彼は否でも応でもかかる生活をつづけなければならなかった。またこれらの俗衆の間に、生活に必要な稽古《けいこ》の口を得んと望むならば、彼は人に知られることを求めなければならなかった。
それにまた、人は一つの心をもっている。心は知らず知らず愛着する。いかなる環境にあっても、愛着の対象を見出してゆく。もし愛着しないとすれば、生きることができないのである。
クリストフが稽古を授けてる若い令嬢のうちに、自動車を製造してる富豪の娘で、コレット・ストゥヴァンというのがあった。父はフランスに帰化してるベルギー人で、アンヴェルスに住まってるアングロ・アメリカ人とオランダ婦人との間《あい》の子であった。娘の母親はイタリー人であった。それはまったくパリー的な家庭だった。クリストフにとっては――また多くの他人の眼から見ても――コレット・ストゥヴァンはフランスの若い令嬢の典型だった。
彼女は十八歳になっていた。若い男たちにやさしみを送るビロードのような真黒な眼、湿《うる》んだ光を眼いっぱいにみなぎらすスペイン風な瞳《ひとみ》、すねたような口つきをしながら話の間に軽く顰《ひそ》めたり動かしたりする、やや長い奇妙な小さい鼻、乱れた髪、愛嬌たっぷりの顔、白粉をなすりつけた平凡な肌《はだ》、やや脹《ふく》れっ気味の大きな顔だち、太った子猫《こねこ》のような様子。
彼女はごくすらりとした身体つきで、服の着つけもよく、誘惑的な挑戦《ちょうせん》的な姿だったが、わざとらしい馬鹿げた嬌態《きょうたい》をいつも見せていた。小娘らしいふりを装《よそお》って
前へ
次へ
全97ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング