同情し得られる人物は夫であると、本気で断言していた。名高い大根役者――著名な喜劇役者――は、ニーチェやカーライルに関して、深奥な思想を震え声で口ごもっていた。ベラスケス――(それは当時の神であった)――の絵を見るといつでも、「大粒の涙が頬《ほお》に流れざるを得ない」と、彼はクリストフに話してきかした。それでも彼のうち明け話――やはりクリストフにたいしての――によれば、彼はいかに芸術を高位にすえるにしても、実人生の芸術を、行為を、さらに高位にすえていて、もし演じたい役割を選ぶとすれば、ビスマルクの役を選びたがっていた。また時々一座の中には、いわゆる才人が交っていた。しかしそのために会話が明らかに高尚となるようなことはなかった。彼らが言ってるつもりでいる事や現に言ってる事などを、クリストフはよくあらためてみた。するとたいてい彼らは、何にも言っていないことが多かった。謎《なぞ》めいた微笑を浮かべて満足しきっていた。自分の名声だけで生きていて、それを損じないようにしていた。また弁舌家もいた。たいてい南欧の者だった。この連中はどんなことでも話した。価値にたいする感じを具えていなかった。すべてを同一の平面に置いていた。シェイクスピヤ気取りの者もいた。モリエール気取りの者もいた。あるいはイエス・キリスト気取りの者もいた。彼らはイプセンを子デューマに比較したり、トルストイをジョルジュ・サンドに比較したりした。そしてそれはもちろん、フランスがすべてを発明したのだということを示さんためにであった。普通彼らはどの外国語も知らなかった。しかしそれに困らされはしなかった。彼らが真実のことを言ってるかどうかは、その聴《き》き手にはどうでもいいことだった。大事なことは、面白くてできるだけ国民的自尊心におもねるような事柄を、口にするということだった。外国人は盛んにののしられていた! その時々の偶像を除けば。偶像と言えばグリーグ、ワグナー、ニーチェ、ゴーリキー、ダヌンチオ、だれであろうと、とにかく流行にとってその一つがいつも必要だった。ただし長つづきはしなかった。今日の偶像はいつか塵《ちり》箱に入れられるの運命にあった。
当時にあっては、偶像はベートーヴェンだった。ベートーヴェンが――いずくんぞ知らん――流行児だったのだ。少なくとも、上流人士と文学者との間ではそうだった。音楽家らの方は、フランスにおける芸術趣味の一の法則たるシーソー的な方法で、すぐにベートーヴェンから離れてしまっていた。フランス人は自分の考えを知るためには、まず隣人の考えを知りたがり、それによって、同じように考えるかあるいは反対に考えるかするものである。かくて、ベートーヴェンが広く知られてきたのを見ると、音楽家らのうちの最も秀《ひい》でた人々は、ベートーヴェンも自分らから見るとそう秀でた者ではないと考え始めた。彼らは世論に先んじようとしていて、決して世論のあとに従ってゆこうとはしなかった。世論に同意するよりはむしろ、それに背を向けたがっていた。それで彼らはベートーヴェンをもって、金切り声で叫ぶ聾の老人だとした。傾聴すべき道徳家ではあるかもしれないが、音楽家としては買いかぶられてるものだと、断定する者さえあった。――そういう悪い冗談は、クリストフの趣味に適しなかった。また上流人士の心酔もやはり彼を満足させなかった。もしベートーヴェンがその時パリーへ来たら、彼は当時の獅子《しし》となり得たであろう。惜しいかな彼は一世紀前に死んでいた。それにまた、感傷的な伝記によって世に広く知られてる、彼の生涯《しょうがい》の多少小説的な事情の方が、彼の音楽よりもさらに多く、この流行を助けていた。獅子のような顔つきをした彼の荒々しい面影は、小説的な顔だちとなされていた。婦人らは彼に同情を寄せていた。もし自分が彼を知っていたら彼をあれほど不幸にはさせなかったものをと、彼女らははばからず言っていた。そしてベートーヴェンがその言葉を真面目《まじめ》に取るの恐れがなかっただけに、なおさら彼女らはその寛大な心をささげようとしていた。がこの好々爺《こうこうや》はもはや故人となって、何物をも求めてはいなかったのである。――それゆえに、名手や管弦楽長や劇場主らは、多くの憐憫《れんびん》を彼にかけてやっていた。そしてベートーヴェンの代表者だという資格で、ベートーヴェンにささげられた敬意を身に引き受けていた。ごく高価な華麗な大音楽会は、上流人士らに、その寛仁さを示す機会を与えていた。――時としてはまた、ベートーヴェンの交響曲《シンフォニー》を発見する機会を与えていた。俳優や軽薄才子や遊蕩《ゆうとう》者や、芸術の運命を監理するの任をフランス共和国から帯びせられた政治家、そういう連中から成る委員らが、ベートーヴェンの記念碑建設の計画を、
前へ
次へ
全97ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング