毒に思った。
「まあ、フィリップ、冗談にしてるんだね。」と彼女は亭主へ言った。――それからクリストフへ向かってつづけて言った。「でもたぶん、だれかあるでしょうよ。」
「だれだい?」と亭主が尋ねた。
「グラッセの娘さん。ピアノを買ってもらったっていうじゃないの。」
「ああ、あの見栄坊どもか。なるほど。」
クリストフは肉屋の娘のことだと教えられた。両親は彼女をりっぱな令嬢に育てたがっていた。たとい近所の評判になるためばかりにでも、娘が稽古《けいこ》を受けることを承知しそうだった。宿屋のおかみさんがあっせんしてやろうと約束した。
翌日彼女は、肉屋のおかみさんが会いたがってるとクリストフに知らした。彼は出かけて行った。ちょうどおかみさんは、獣の死骸《しがい》のまん中に帳場にすわっていた。顔|艶《つや》のよい愛嬌《あいきょう》笑いのある美しい女で、彼がやって来た訳を知ると、大風《おおふう》な様子をした。すぐに彼女は報酬の高を尋ねだして、ピアノは気持のよいものではあるが必要なものではないから、たくさん払うわけにはゆかないと急いでつけ加えた。一時間に一フラン出そうときり出した。そのあとで彼女は、半信半疑の様子で、音楽をよく心得ているのかとクリストフに尋ねた。心得てるばかりでなく自分で作りもすると彼が答えると、彼女は安心したらしく、前よりも愛想よくなった。自分で作るということが彼女の自尊心を喜ばした。娘が作曲家から稽古《けいこ》を受けてるという噂《うわさ》を、彼女は近所に広めるつもりだった。
翌日クリストフは、肉屋の娘といっしょにピアノについた。それはギターのような音がする、出物で買った恐ろしい楽器だった。娘の指は太くて短く、鍵《キー》の上にまごついてばかりいた。彼女は音と音との区別もできなかった。退屈でたまらなかった。初めから彼の眼の前で欠伸《あくび》をやり始めた。そのうえ彼は、母親の監視や説明を受け、音楽および音楽数育に関する彼女の意見を聞かされた。すると彼はもう、非常に惨《みじ》めな気持になり、惨めな恥さらしの気持になって、腹をたてるだけの力もなかった。彼はまた失望落胆に陥った。ある晩などは食事することもできなかった。数週間のうちにここまで落ちて来た以上は、今後どこまで落ちてゆくことであろう。ヘヒトの申し出に反抗したのもなんの役にたったか。現在甘受してる仕事の方が、さら
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