の敵となったのだと疑わなかった。敵都における絶対の孤独だった。ディーネルとコーンとのほかには、一人の知人もなかった。ドイツで交誼《こうぎ》を結んだ美しい女優のコリーヌは、パリーにいなかった。彼女はまだ他国巡業中で、アメリカに行っていて、こんどは独立でやっていた。有名になっていたのである。新聞には彼女の旅の華々《はなばな》しい記事が出ていた。また彼は、思いがけなくも職を失わせた結果になってる、あの若い家庭教師のフランス婦人については、長い間考えることに苛責《かしゃく》の種となったので、パリーへ行ったら捜し出そうと、幾度みずから誓ったかわからなかった(第四巻反抗参照)。しかし今パリーへ来てみると、たった一つのことを忘れてるのに気がついた。それは彼女の姓だった。どうしても思い出せなかった。ただアントアネットという名だけしか覚えていなかった。それにまた、もし思い出すことがあろうとも、こんなにたくさんの人が集まってる中で、一人の若い家庭教師たる彼女をどうして見出せよう!
 彼はできるだけ早く、糊口《ここう》の道を立てなければならなかった。もう五フランしか残っていなかった。彼は主人へ、でっぷりした飲食店の主人へ、この付近にピアノの稽古《けいこ》を受けそうな人はいないだろうかと、嫌々《いやいや》ながらも思い切って尋ねてみた。主人は日に一度しか食事をせずにドイツ語を話してるこの宿泊人を、前からあまり尊敬してはいなかったが、一音楽家にすぎないことを知ると、そのわずかな敬意をも失ってしまった。音楽を閑人《ひまじん》の業《わざ》だと考える古めかしいフランス人だったのである。彼は馬鹿にしてかかった。
「ピアノですって……。あなたはピアノをたたくんですか。結構なことですな。……だが、すき好んでそんな商売をやるたあ、どうも不思議ですね。私にゃどんな音楽を聞いても雨が降るようにしか思えないんですが……。あとで私にも教えてもらいますかな。どう思う、君たちは?」と彼は酒を飲んでる労働者らの方へ向いて叫んだ。
 彼らは騒々しく笑った。
「きれいな商売だ。」と一人が言った。「汚《きたな》かねえよ。それに、女どもの気に入るからな。」
 クリストフにはまだフランス語がそうよくはわからなかった。悪口はなおさらだった。彼はなんと言おうかと考えた。怒《おこ》っていいものかどうかわからなかった。おかみさんは彼を気の
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