がいないとわかってる時間にした――ヘヒトと話すのを避けるために。しかしそれは余計な用心だった。一度ヘヒトに出会ったことがあるけれど、ヘヒトは彼の健康を二、三言冷淡に尋ねたばかりだった。
かくして彼は沈黙の獄屋に蟄居《ちっきょ》していた。するとある朝、ルーサン夫人から一晩の音楽会の招待状を送ってきた。名高い四重奏曲が聴《き》かれるはずだった。手紙はきわめて親切な文句で、主人のルーサンも懇篤な数行を書き添えていた。彼はクリストフとの仲|違《たが》いを自慢にはしていなかった。情婦の女歌手と喧嘩《けんか》をして彼女に容赦ない批判をくだすようになってからは、なおさらのこと自慢にしてはいなかった。彼は善良な男だった。不正な目に会わしてやった人たちを恨んではしなかった。不正を受けた人たちが彼よりもいっそうそれを根にもってるのが、おかしく思われるほどだった。それで、そういう人たちに会ってうれしい時には、躊躇《ちゅうちょ》せずに手を差し出すのであった。
クリストフは初め肩をそびやかして、行くものかと誓った。しかし音楽会の日が近づくに従って決心が鈍ってきた。もう人間の言葉を一語も聞かないので、ことに音楽の一音符をも聞かないので、胸つまる心地がしていた。それでも彼はなお、彼奴《あいつ》らの家へ足を踏み入れるものかとみずからくり返した。しかしその晩になると、自分の弱さを恥じながらも出かけていった。
その報いはひどかった。政治家や軽薄才子らの集まりにはいるや否や、彼らにたいして近来にない激しい嫌悪《けんお》を感じた。幾月も寂寞《せきばく》のうちに暮らしてきたので、かかる人間の動物園に馴染《なじみ》浅くなっていたのである。そこで音楽を聞くことはとても辛抱できなかった。それは一つの冒涜《ぼうとく》だった。最初の曲が終わったらすぐに帰ろうと彼は決心した。
彼は周囲にずらりと並んでる厭《いや》な顔や身体を見渡した。すると、客間の向こう端で、こちらをながめてる眼に出会った。その眼はすぐにそらされたけれど、その中にこもっていたなんとも言えぬ誠実さが、まわりの鈍い眼つきの間で彼の心を打った。内気ではあるが明らかなきっぱりとした眼であった。一度だれかの上にすえられると、絶対の真実さでその人をながめ、自分のうちの何物をも隠さないとともに、おそらく相手の何物をも見落さないような、フランス式の眼であった。
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