言うべきかかる神秘な愛情の発作に、今や駆られるようになった。晩に、中庭の上の窓にもたれて、夜の神秘な響きに……遠く聞けば可憐《かれん》と思える隣家の歌声に、モーツァルトの曲を無心でひいてる小娘のピアノに……じっと耳を傾けながら、彼は考えた。
「僕の愛する見知らない皆の人たちよ! 生活のために少しもしぼまず、不可能だと知りながら大事を夢み、敵の世界と闘《たたか》ってる人たちよ――僕は君たちが幸福を得んことを希望する――幸福であることは実にいいことだ!……おう友たる人たちよ、僕は君たちがそこにいるのを知って、両手を差し出しているのだ。……しかしわれわれの間には石の壁がある。僕はその一石一石をすりへらしている。しかし同時に僕自身もすりへらされる。われわれは決していっしょになれないのであろうか? 他の壁が、死が、間にそびえないうちに、僕は君たちのもとに達するであろうか?……いや、僕はたとい生涯《しょうがい》孤独であっても構わないのだ。君たちのために働き、君たちのためにいいことをなし、君たちが僕を、やがて、死後に、多少なりと愛してくれさえするならば……。」
 かくして回復期のクリストフは、二人の善良な乳母の乳を飲んでいた、「愛と悲惨[#「愛と悲惨」に傍点]」との乳を。

 彼はかかる意志の弛緩《しかん》中、他人に近づきたい欲求を感じた。まだ身体がごく弱かったけれども、そして無用心なことではあったけれども、彼は朝早く、人口|稠密《ちゅうみつ》な街路から群集の波が遠くの仕事場へ流れ出すころ、または夕方、その人波がもどってくるころ、外へ出かけてみた。彼は人情の慰安の風呂《ふろ》に浸りたかった。それでもだれかに口をきくでもなかった。口をきくことを求めもしなかった。人々が通るのをながめその心中を察し彼らを愛することだけで、彼には十分だった。彼は愛情のこもった憐憫《れんびん》の眼で観察した、前もってその日の仕事に疲れてるような様子で、足を早めてる労働者らを――艶《つや》のない顔色をしきびしい表情を見せ変な微笑を浮かべてる、青年男女の顔つきを――移り気な欲望や懸念《けねん》や皮肉などの波の過ぎるのがよく見て取られる、変化の多い透き通った顔を――機敏な、あまりに機敏な、多少病的な、大都市のその民衆を。彼らは皆、男は新聞を読みながら、女は三日月形のパンをかじりながら、早く歩いていた。うとうとと
前へ 次へ
全194ページ中185ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング