、疾病《しっぺい》、困窮、苦しみの理由は多くあったにもかかわらず、クリストフは我慢強く自己の運命を堪え忍んだ。かほど忍耐強いことはかつてなかった。彼自身でも驚いた。病気は往々ためになるものである。病気は身体をこわしながら、魂を解放する、魂を浄《きよ》める。無活動を強《し》いられた夜や昼を過ごすうちに、あまりに生々《なまなま》しい光を恐れ健康の太陽には焼かれるような、種々の思想が起こってくる。かつて病気になったことのない者は、決して自己の全部を知ってはいない。
病気はクリストフのうちに、特殊な和らぎを与えていた。彼のうちの粗野なものをはぎ取っていた。各人のうちに存在しながら人生の喧騒《けんそう》のために聞き漏らされてる、諸々《もろもろ》の神秘な力の一世界を、彼はこれまでにない繊細な官能で感得した。ごく些細《ささい》な記憶も脳裡《のうり》に刻まれる発熱時に、ルーヴル博物館を見物して以来、彼はレンブラントの画面の雰囲気《ふんいき》に似た、熱い深い穏やかな雰囲気のうちに生きていた。彼もまた心のうちに、眼に見えない太陽の怪しい反映を感じていた。信仰をもってはいなかったけれど、自分が孤独でないことを知っていた。一の神が彼の手を取って、彼を行くべきところへ導いていた。彼は幼い子どものようにその神に信頼していた。
数年以来初めて、彼は休息しなければならなかったのである。病気になる前の異常な知的緊張は、今もなお彼を疲憊《ひはい》さしていたが、そういう緊張のあとにおいては、回復期の倦怠《けんたい》でさえ一つの休息であった。数か月以来不断の警戒的気持に堅くなっていた彼は、次第に視力が散漫になるのを感じた。それでも彼は弱らなかった。いっそう人間的になった。天才の力強いしかし多少怪物的な生活は、遠景にひそんでしまった。あらゆる精神的熱狂を奪われ、活動に付随する冷酷無慈悲なものをすべて奪われた、通常の人間たる自分自身を、彼は見出した。彼はもはや何物をも憎まなかった。もはや腹だたしい事柄を考えなかった。あるいは考えても、単に肩をそびやかすばかりだった。自分の労苦を少なく考え、他人の労苦を多く考えた。地上のあらゆる方面において、不平も言わずに苦闘してる、貧しい魂らの黙々たる苦しみを、シドニーから思い起こさせられて以来、彼はそういう魂のうちに自分を忘れた。平素は感傷的でなかった彼も、虚弱の花とも
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