夢みてる音楽――ヨハン・セバスチアン・バッハの、「懐かしき神よ[#「懐かしき神よ」に傍点]、われは何時死ぬべきか[#「われは何時死ぬべきか」に傍点]」という交声曲《カンタータ》の第一合唱句が……。心地よきかな、ゆるやかな波動、遠いおぼろな鐘の音、それとともに展《ひら》けゆく柔らかな楽句の中に身を浸すことは、……死ぬこと、大地の平和の中に融《と》け込むこと、……「それから自分の身が土となる」ことは……。
 クリストフは、それらの病的な思想を振るい落し、弱った魂をねらってる人魚の危険な徹笑を拒《しりぞ》けた。そして立ち上がって、室の中を歩こうとした。しかし立っていることができなかった。熱のために震えていた。床につかざるを得なかった。こんどは重い病気だという気がした。しかし降参しなかった。病気になって病気に身を任せるような男ではなかった。彼は反抗し、病気になるまいとし、ことに、死ぬものかと腹をすえていた。遠く彼方《かなた》には彼を待ってる憐《あわ》れな母親があった。そして自分にはなすべき仕事があった。殺されてなるものか! 彼は震える歯をくいしばり、逃げようとする意志を張りつめた。覆《おお》いかかる波の中に闘《たたか》いつづける水練家のようだった。それでもたえず彼は沈み込んだ。取り留めもない事柄、連絡のない幻影、パリーの客間《サロン》や故郷の思い出、または、馬場の馬みたいに際限もなく回ってる、律動《リズム》や楽句の妄想《もうそう》、あるいは突然に、善良なるサマリア人[#「善良なるサマリア人」に傍点]の金色の光の投射、闇《やみ》の中の恐怖の顔つき、次には、深淵《しんえん》、暗夜。それから彼はまた浮かび上がってき、立ち乱れた雲霧を引き裂き、拳を握りしめ頤《あご》をくいしばった。彼はすがりついていった、現在や過去において愛したすべての人々に、先刻ちらと見た懐《なつ》かしい顔に、親愛なる母親に、または、「死も噛み込めない[#「死も噛み込めない」に傍点]」岩のように感ぜられる、自分の頑丈《がんじょう》な一身に……。しかしその岩もふたたび海水に覆われた。ぶつかってくる波のために、しがみついてる魂の手はゆるんだ。魂は白波に押し流された。そしてクリストフは、昏迷《こんめい》のうちにもがきながら、無意味な文句を口にして、想像の管弦楽を、トロンボーン、トランペット、シンバル、チンパニー、バスー
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