あの悲しげなやさしい眼を思い当たった。ドイツにいた時彼が心にもなく地位を失わせることになった、あの若い家庭教師のフランス女で、許しを乞《こ》わんためにその後あれほど捜し求めていた女だった。彼女もまた、込み合った通行人の間に立ち止まって、彼の方をながめていた。見ると、彼女は突然群集の流れに逆らって、彼の方へ来るため中央路に降りようとした。彼も彼女に会おうと駆け出した。しかしどうにもできない馬車の輻輳《ふくそう》のために、間を隔てられた。その生きた障壁の向こう側でいらついてる彼女の姿が、なおちょっと見えた。彼はなお通りを横切ろうとして、為に突き飛ばされ、ねばねばしたアスファルトの上に滑《すべ》りころげ、危うく轢《ひ》きつぶされるところだった。そして泥《どろ》まみれになってまた立ち上がり、ようやく向こう側にたどりついた時には、彼女の姿はもう見えなかった。
彼は彼女のあとを追っかけたかった。しかし眩暈《めまい》がさらにひどくなっていた。あきらめるのほかはなかった。病気になりかかっていた。それを感じながらも認めたくなかった。彼はがんばって、すぐに家へは帰らずに、長い回り道をした。無駄《むだ》な苦しみだった。まいったことを認めざるを得なかった。足が折れそうで、やっと歩行をつづけ、ようやくのことで家に帰った。階段で息が切れて、その踏み段に腰をおろさなければならなかった。冷え切った自分の室にもどったが、なお意地を張って寝床にはいらなかった。じっと椅子《いす》に腰をかけて、雨に濡《ぬ》れ頭は重く胸はあえぎながらも、自分と同じように疲憊《ひはい》しきった音楽の中に浸り込んだ。シューベルトの未完成交響曲[#「未完成交響曲」に傍点]の楽句が次々に聞こえてきた。可憐《かれん》なるシューベルトよ! 彼もまた、それを書いた時には、孤独で熱に浮かされうとうととしていて、永眠に先立つ夢現の状態にあった。暖炉の隅《すみ》で夢想していた。麻痺《まひ》しかけた音楽が、少しよどんだ水のようにあたりに漂っていた。半ば眠りかけた子供が、自分でこしらえ出す話を面白がって、その一か所を幾度もくり返すように、彼はその音楽にいつまでも浸り込んでいる。そして眠りがやって来る……死がやって来る……。またクリストフの耳には、他の音楽も響いてきた。燃えるような手をし、眼を閉じ、ものうい微笑を浮かべ、心は嘆息に満ち、解放の死を
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