った。話をしながらラタン町へ上っていった。彼女は彼の腕を取っていた。彼は彼女を家まで送っていった。しかしその戸口までやって行き、彼女が彼を引き入れるつもりでいると、彼はその誘いの眼つきに気も留めないで、そのまま別れ去ってしまった。しばらく彼女は呆然《ぼうぜん》としたが、次には腹がたった。それから、彼の馬鹿さを考えて笑いこけた。次に自分の室へはいって着物を脱ぎながら、またいらだってきた。そしてついには黙って泣いた。音楽会でふたたび彼に会った時、彼女は気をそこねた冷淡な多少|意固地《いこじ》な様子を見せようとした。しかし、彼があまり善良なお坊ちゃんだったので、その決心も保てなかった。二人はまた話しだした。ただ彼女は、今でも少し遠慮していた。彼の方では、ねんごろにしかしごくていねいに口をきいて、真面目《まじめ》なことや、美しいことや、二人で聴いてる音楽のことや、それが自分にとっては何を意味するかということを、話してきかした。彼女は注意深く耳を傾けて、彼と同じように考えようとつとめた。彼の言葉の意味がわからないこともしばしばだったが、それでもやはり信じていた。クリストフにたいして感謝的な敬意をいだいていたが、その様子をほとんど示しはしなかった。二人は暗々裡《あんあんり》に一致して、音楽会でしか語を交えなかった。彼は一度、学生らの間で彼女に出会った。二人は真面目《まじめ》くさって挨拶《あいさつ》をした。彼女はだれにも彼のことを語らなかった。彼女の魂の奥底には、ある神聖な小さな場所が、何かしら美しい純潔な慰謝的なものが、存在していた。
 かくてクリストフは、彼一人の存在によって、彼が存在してるというだけの事実によって、人の心を慰安するような影響を及ぼし始めた。彼はどこへ行っても、知らず知らずに、自分の内部の光明の跡を残した。それに最も気づいていないのは彼自身だった。彼の近くに、同じ家の中に、彼がかつて会いもしなかった多くの人がいたが、彼らはみずから知らずに、彼の有益な光明を次第に受けていた。

 数週間前からクリストフは、肉食を断ちまでして倹約しながらも、もう音楽会へ行くだけの金がなかった。そして、屋根裏の自分の室では、今や冬になると、身体が凍えてしまうような気がした。彼はじっと机に向かってることができなかった。そこで降りていって、温《あたた》まるためにパリーの中を歩き回った。
前へ 次へ
全194ページ中168ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング