彼は周囲の煩雑な都会を時々うち忘れて、無限の時間のうちに逃げ込む術を知っていた。空の深みにかかってる死に凍えた月や、白い霧の中に回転してる太陽の円《まる》い面を、騒々しい街路の上方にながめるだけで、町の喧騒《けんそう》は消えてしまい、パリー全市は無際限な空虚のうちに捜してしまって、その全生活が、昔の、遠い遠い以前の……数世紀以前の……生活の幻影のようにしか思えなかった。辛うじて文明の皮をかぶってる自然の大なる野蛮な生活の、普通の人の眼にはつかないほどのわずかな徴《しるし》を見ただけで、その自然の生活全部が彼の眼に映じてきた。舗石の間に伸び出てる草、乾燥した大通りの空気も土も不足してる所に、鉄板の幹|覆《おお》いに圧迫されながらも芽を出してる樹木、または、太古の世界に充満してその後人間に滅ぼされてしまった動物どもの名残《なご》りとも言うべき、うろついてる犬や小鳥、あるいは、一群れの小蝿《こばえ》、町の一郭を蚕食してる眼に見えない病菌――それらに眼をやるだけで、人間の温室たるこの都会の息苦しい中にあって、大地の霊[#「大地の霊」に傍点]の息吹《いぶ》きが彼の顔に吹きつけてき、彼の元気を鼓舞するのであった。
 彼はしばしば食も取らず、数日間だれとも話をせずに、そういう長い散歩をしながら、尽きぬ夢想のうちに浸った。その病的な気分は節食と沈黙とのためにひどく昂進《こうしん》していた。夜は、苦しい眠りや疲労を来たす夢に陥った。幼時を過ごした古い家が、その室が、たえず眼の前に浮かんできた。音楽的|妄想《もうそう》が、しつこく頭につきまとって来た。昼は、心の中にある人々や愛する人々、遠く離れてる人々や死んだ人々と、たえず話をかわした。
 湿っぽい十二月の午後、霜氷は堅くなった芝生《しばふ》を覆い、人家の屋根や灰色の円屋根は霧にぼかされ、細長い屈曲した裸の枝を広げてる樹木は、靄《もや》の中におぼれて、大洋の底の海草に似ていた――その午後、クリストフは前日来|悪寒《おかん》を覚え身体が温まらなかったが、まだよく知らないルーヴル博物館にはいってみた。
 彼はこれまで、大して絵画に心を動かされたことがなかった。内心の世界にあまり気を奪われていたので、色彩と形体との世界をよくとらえることができなかった。色彩や形体は、ただぼんやりした反響をもたらすのみである音楽的共鳴としてしか、彼に働きかけて
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