ていた。しかるに今クリストフがやって来ると、彼はこの機会をとらえて、相手に屈辱的な態度を取らないでいいようにしてやりながら、過去の誤解の記憶を寛大に消し去ろうとするどころか、かえって、相手に長々とその要求を述べさして喜んだ。そして、クリストフがかつて拒んだ仕事を、少なくとも一度だけはぜひともやらせたがった。五十ページの楽譜を渡して、それを明日じゅうにマンドリンとギターとに組曲してくれと言った。そのあとで彼は、クリストフに我《が》を折らしたのに満足して、も少しよい仕事を見つけてくれた。しかしいつもきわめて無愛想な態度だったので、クリストフは少しもありがたくは思えなかった。困窮に駆られなければふたたび彼のもとへ走ることをしなかった。がとにかく、その仕事がいかに厭《いや》なものであろうと、ヘヒトからただ金をもらうよりは、まだそれで金を得る方が気持よかった。実際ヘヒトは、ある時彼に金をやろうとした――それも確かに好意からであった。しかしクリストフは、ヘヒトが初め自分をへこますつもりでいたことを感じていた。彼は向こうの条件は承諾しなければならなかったが、少なくとも恩恵を受けることは拒絶した。仕事をしてやるのはいい――おたがいに与えっこだから構わない――しかし何か負い目を受けることは好ましくなかった。彼は、自分の芸術にたいする破廉恥な乞食《こじき》たるワグナーとは異なっていた。自分の芸術を自分の魂以上に置いてはいなかった。自分のかせいだパンでなければ喉《のど》に通らなかった。――あくる日、彼が徹夜して仕上げた仕事をもってゆくと、ヘヒトは食卓についていた。ヘヒトは、彼が無意識に食物の上へ投げた眼つきや蒼《あお》ざめた顔色を見て、何にも食べないでいるのに違いないと思い、御馳走《ごちそう》をしてやろうとした。その志は親切だった。しかし、クリストフの困窮を見て取ったことや、その御馳走が施与《ほどこし》に等しいことを、どしりと胸にこたえさせるような態度だった。クリストフは、たとい餓死するともそんなものを受けたくなかった。が食卓へすわるのを断わるわけにはゆかなかった――(話があると言われたので)。けれど何一つ手をつけなかった。食事をしたばかりのところだと言った。胃袋は食べたくてひくひくしていた。
 クリストフはヘヒトに頼らないで済ましたかった。しかし他の出版屋はさらにひどかった。――また、
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