たった。きびしくみずから責めた。腹のことばかり考えてる食い辛棒《しんぼう》だとみずから見なした。が実は彼には腹はほとんどなかった。痩《や》せ犬よりもなおほっそりした腹だった。それでも彼は堅固で、骨格はたくましく、頭脳は常に自由だった。
 彼は明日のことをあまり気にしなかった。その日の金さえあれば平気だった。無一文になると、思い切って本屋回りを始めた。しかしどこにも仕事は見出せなかった。むなしく家へ帰りかけた。その時、先ごろシルヴァン・コーンからダニエル・ヘヒトへ紹介された楽譜店のそばを通りかかって、中にはいって行った。あまり面白くない事情ですでにここへは来たことがあるのを、忘れてしまっていた。ところが第一に眼にとまったのはヘヒトだった。彼は引き返そうとした。しかしもう間に合わなかった。ヘヒトから見られてしまっていた。彼は逃げる様子を見せたくなかった。どう言ってよいかもわからないで、ただヘヒトの方へ進んでいった。なるべく横柄《おうへい》な様子で対抗してやるつもりだった。というのは、ヘヒトは無礼を容赦しない男だと信じていたから。ところがヘヒトは少しもそうでなかった。彼の方へ平然と手を差し出した。普通のきまり文句で彼の健康を尋ねた。そして彼が何か言い出すのをも待たないで、事務室の扉《とびら》を指《さ》し、身を退けて彼を通した。ヘヒトはこの訪問を内心喜んだ。傲慢《ごうまん》のあまりそれを予知してはいたが、もう期待してはいなかったのである。彼はひそかにクリストフの行動を注意深く探っていた。クリストフの音楽を知るべき機会は一度ものがさなかった。噂《うわさ》の高いダヴィデ[#「ダヴィデ」に傍点]演奏会にも臨んでいた。彼は聴衆を軽蔑《けいべつ》していたので、その作にたいする聴衆の敵意ある冷遇をさほど驚きはしなかったが、作の美点は残らず完全に感じたのだった。クリストフの芸術的独創性をヘヒト以上によく鑑賞し得る者は、おそらくパリーに幾人もなかったであろう。しかしヘヒトは、それをクリストフに言いたがらなかった。自分にたいするクリストフの態度が癪《しゃく》にさわっていたばかりでなく、親切な様子を見せることがまったくできなかったのである。彼は生来特別に無愛想な男だった。心からクリストフを助けるつもりではいたが、そのために一歩の労も取りたくはなかった。クリストフの方から助力を求めに来るのを待っ
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