クリストフは幸福だった。
 とは言え、彼の境遇は最も困難になっていた。唯一の財源だったピアノの教授のわずかなものを、皆失ってしまった。ちょうど九月のことで、パリーの上流社会は休暇中だった。他の弟子《でし》を見つけるのは困難だった。彼が見出した唯一の弟子は、頭はよいが分別の足りない技師で、四十歳になってヴァイオリンの名手になろうと思いついた男であった。クリストフはヴァイオリンがそう上手《じようず》ではなかった。それでもこの弟子よりは巧みだった。そしてしばらくの間彼は、一時間二フランのきめで週に三時間教えてやった。しかし一か月半ばかりたつと、技師は飽いてしまって、自分の重大な天職は絵画にあることをにわかに発見した。――ある日彼がその発見をクリストフに語った時、クリストフはたいへん笑った。しかし笑い終えてから、懐《ふところ》勘定をしてみると、最後の謝礼としてもらった十二フランがあるきりだった。それでも彼はあわてなかった。ただ、生活の他の方法を捜さなければならないが、出版共著の方にでもまた奔走を始めてみようかと、考えただけだった。それはたしかに愉快なことではなかった。……が、馬鹿な!……前から気を病むに及ぶものか。ちょうど天気もよかった。彼はムードンへ出かけた。
 彼は歩行の飢えを感じていた。歩いてると音楽上の収穫が増してきた。彼は音楽に満ちていて、あたかも蜂《はち》の巣のようだった。そして蜜蜂《みつばち》の金色の羽音に微笑《ほほえ》んでいた。それはたいてい、転調に富んだ音楽だった。それから、躍《おど》り立つ執拗《しつよう》な魅惑的な律動《リズム》……。室内に蟄居《ちっきょ》してしびれがきれたら、律動《リズム》を創作しにでも出かけるがいい! パリー人らのように動きのない微細な和声《ハーモニー》と混和させるには、もってこいだ!
 彼は歩き疲れると、森の中に寝そべった。木々の葉は半ば枯れ落ちて、空は雁来紅《がんらいこう》の花のように青かった。クリストフはうっとりと夢想にふけった。その夢想はすぐに、十月の靄《もや》から落ちてくる柔らかい光の色に染められた。彼の血は高鳴っていた。彼は自分の思想の早波が通りすぎるのに耳傾けた。たがいに争闘してる老若の世界、また一都会の住民のように彼のうちに生きている、亡《な》き魂の断片、古《いにしえ》の客人寄食者、それらが地平線の四方から湧《わ》き上
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