然と答えた。「私はパリーでなんの用もありません。場合によっては一日待っていても平気です。」
若い店員はそれを冗談だと思って茫然《ぼうぜん》と彼をながめた。しかしクリストフはもうその男のことなんか考えていなかった。往来の方に背を向けて悠々《ゆうゆう》と片隅《かたすみ》にすわった。そこに腰を落ち着けてしまうつもりらしかった。
店員は店の奥にもどっていって、仲間の者らと耳打ちをした。彼らはおかしな狼狽《ろうばい》の様子で、この邪魔者を追い払う方法を講じた。
不安な数分が過ぎてから、店の中扉《なかとびら》が開いた。ディーネル氏が現われた。大きな赤ら顔で、頬《ほお》と頤《あご》とに紫色の傷痕《きずあと》があり、赤い口|髭《ひげ》を生《は》やし、髪を平らになでつけて横の方で分け、金の鼻|眼鏡《めがね》をかけ、シャツの胸には金ボタンをつけ、太い指に指輪をはめていた。帽子と雨傘《あまがさ》とを手にしていた。彼は何気ない様子でクリストフの方へやっていった。クリストフは椅子《いす》の上にぼんやりしていたが、驚いて飛び上がった。彼はディーネルの両手を取り、大仰《おおぎょう》な親しさで叫びだした。店員らは忍び笑いをし、ディーネルは顔を赤らめた。この堂々たる人物が、クリストフと昔の関係をふたたびつづけたくないと思ったのには、種々の理由があった。彼は最初から威圧的な態度をしてクリストフを親しませないつもりだった。しかしクリストフの眼つきを見るや否や、その面前では自分がふたたび小さな少年になったような気がした。それが腹だたしくもあり恥ずかしくもあった。彼は急いで口早に言った。
「私の室に来ませんか。……その方がよく話しができていいでしょう。」
クリストフはそういう言葉のうちに、ディーネルの例の用心深さをまた見出した。
しかし、その室にはいって扉《とびら》を注意深く閉《し》め切っても、ディーネルはなかなか彼に椅子《いす》をすすめようともしなかった。彼はつっ立ったまま、へまに重々しく弁解しだした。
「たいへん愉快です……私は出かけるところでした……皆はもう私が出かけたことと思って……だが出かけなければならないんです……ちょっとしか隙《ひま》がありません……さし迫った面会の約束があるので……。」
クリストフは、店員が先刻|嘘《うそ》をついたことを悟り、その嘘は自分を追い払うためにディーネル
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