空想的な馬鹿げた恋で身を焦がしてるある傀儡《かいらい》を、示さんがためであった――あるいは、恋人に愛されないからといって、わざわざ死地に身をさらしてる国王アンリー四世を、示さんがためであった。
かくてその薄野呂《うすのろ》な人々は、国王や英雄らの室内劇をやっていた。キロス大王[#「キロス大王」に傍点]の時代の有名な馬鹿者ども、理想的なガスコン人ども――スキュデリーやラ・カルプルネード――のふさわしい後裔《こうえい》であり、真の英雄主義の敵たる、あり得べからざる虚偽の英雄主義の謳歌《おうか》者であった……。フランスは慧敏《けいびん》だと自称してるくせに、滑稽《こっけい》にたいしては少しも感じがないということを、クリストフは見て取って驚いた。
何よりもいけないのは、宗教が流行してる時だった。当時、四旬節祭の間、俳優らがゲーテ座で、オルガンの伴奏につれて、ボシュエの説教を読んでいた。イスラエル式の作者らが、イスラエル式の女優のために、聖テレザに関する悲劇を書いていた。ボディニエール座では十字架への途[#「十字架への途」に傍点]が演ぜられ、アンビギュ座では幼きキリスト[#「幼きキリスト」に傍点]が、ポルト・サン・マルタン座では御受難[#「御受難」に傍点]が、オデオン座ではイエス[#「イエス」に傍点]が、動植物園ではキリストに関する管絃楽の組曲が、それぞれ演ぜられていた。ある華々《はなばな》しい話し手が、豊艶《ほうえん》な恋愛の詩人が、シャートレー座で贖罪[#「贖罪」に傍点]について講演をしていた。もとより、これらの俗人らが福音書中で最もよく頭に留めてるのは、ピラトとマグダラのマリアとであった――「真理とはなんぞや[#「真理とはなんぞや」に傍点]?」と狂気の処女とであった。――そして広場を彷徨《ほうこう》する彼らのキリストは恐ろしく饒舌《じょうぜつ》で、世間的良心批判のごく機微な点にまで通じていた。
クリストフは言った。
「これはいちばんひどい。虚偽の化身《けしん》だ。僕は息がつけなくなる。出て行こう。」
それでも、偉大な古典芸術が存在していた。現代ローマの気障《きざ》な建築物中における、古代殿堂の廃址《はいし》のように、それは近代の工芸品の中にそびえ立っていた。しかしクリストフは、モリエールを除いては、それを鑑賞し得るまでになっていなかった。彼には言葉の深い意味がわ
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