してるのであった。芝居と詩との関係は、歌劇《オペラ》と音楽との関係と同じである。ベルリオーズが言ったように、娼家と恋愛との関係[#「娼家と恋愛との関係」に傍点]である。
 クリストフは種々のものを見た。身を売るのを名誉としていて、十字架に上るキリストに比較されてる、清浄によって娼婦《しょうふ》たる貴婦人――忠実なるあまり友人を欺いてる男――貞節なる三角関係――妻に裏切られてる雄々しい夫(この類型は、純潔なる売笑婦と同様、全欧的の題目となっていた。マルク王の例は彼らを熱狂さしていた。聖フーベルトの鹿《しか》のように、彼らはもはや円光をいただいてしか現われなかった)――クリストフはまた、シメーヌのように恋と義理との板ばさみとなってる浮気娘をも見た。恋は新しい情婦のもとに走ることを求め、義理は古い男のもとにとどまることを求めていた。古い男というのは、彼女に金を与えてる老人で、もとより彼女から欺かれてるのであった。終わりになると彼女はいつも敢然として、義理の方に従うのであった。――クリストフは、その義理なるものは汚らわしい利害と大差ないものだと思った。しかし観客は満足していた。義理という言葉だけで十分なのであった。実物はどうでもよかった。保証のしるしがついてるだけでたくさんだった。
 情欲的な不道徳とコルネイユ風の勇侠《ゆうきょう》とが、最も矛盾した方法で一致し得る時に、芸術の極致に達するのであった。かくてこのパリーの観客は、精神の放逸も饒舌《じょうぜつ》な徳操も、すべてにおいて満足させられていた。――それには無理からぬ点もあった。彼らは放逸ではあるがさらにより多く饒舌《じょうぜつ》だった。雄弁に出会うと恍惚《こうこつ》となるのだった。りっぱな演説を聞くためなら鞭《むち》打たれても構わないほどだった。美徳にせよ悪徳にせよ、すてきな勇侠《ゆうきょう》にせよ卑猥《ひわい》な下劣にせよ、調子のよい脚韻と響きのよい言葉とで飾られる時には、彼らはどんな物でも丸飲みにした。あらゆるものが対句《ついく》の材料となった。すべてが文句だった。すべてが遊戯だった。ユーゴーはその霹靂《へきれき》の声を聞かせようとする時、すぐに弱音機を用いて(彼の使徒たるマンデスが言ったように)小さな子供をも驚かすまいとした。(この使徒はそれを賞賛のつもりで言ってるのだった。)――フランス詩人の芸術のうちには、自
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