力がつくされたのだ。彼らは自分の家にばかり蟄居《ちっきょ》している。外に出るのをおっくうがっている。それゆえ、彼らの音楽には空気が欠乏している。閉《し》め切った室と長|椅子《いす》との音楽であり、歩くことのない音楽である。野の中で作曲し、坂路をころげ降り、月光や雨の中を大股《おおまた》に歩き、その身振りと叫び声とで家畜の群れを恐れさせる、ベートーヴェンのごときとは、まったく正反対である。パリーの音楽家らには、「ボンの熊《くま》」みたいに、霊感《インスピレーション》の騒々しさによって隣人らの邪魔となる恐れは、少しもなかった。彼らは作曲する時、自分の楽想に弱音器をはめ、また外界の音響が伝わって来るのを、帷幕《とばり》によって防いでいたのだ。
 ところでこのスコラ派は、空気を新しくしようと努めたのだった。そして過去にたいして窓を開いていた。しかしただ過去にたいしてばかりだった。言わば中庭の方のを開いたのであって、往来の方のを開いたのではなかった。それでは大した役にはたたなかった。彼らは窓を開いたかと思うとすぐに、風邪《かぜ》にかかりはしないかと恐れてる老婆《ろうば》のように、その鎧戸《よろいど》を閉めてしまった。その隙間《すきま》から、中世紀のもの、バッハ、パレストリナ、俗謡などが、多少吹き込んできた。しかしそれがなんになろう? 室の中はやはり閉め切った感じばかりだった。要するに、彼らにはそれの方がよかったのである。彼らは近代の空気の大流通をきらっていたのである。そして、他の者らよりも多くのことを知っていたとはいえ、またより多くのことを否定していた。この連中の中にはいると、音楽は教理的性質を帯びるのであった。それは一つの休養ではなかった。音楽会は、歴史の授業か教化の実例かのようであった。進んだ思想も官学風になされていた。急湍《きゅうたん》のごときバッハも、この聖教徒らの中に迎えられると賢明になっていた。彼の音楽は、このスコラ派の頭脳にはいると、荒々しい肉感的な聖書がイギリス人の頭脳にはいった時と同じような、一種の変形を受けるのであった。彼が主唱する教義は、ごく貴族的な折衷主義であって、六世紀から二十世紀にわたる三、四の音楽的大時代の各特質を、一つに合同しようと努めることであった。もしそれが実現できた暁には、インドのある太守が方々への旅行からもどってきて、地球の四辺から集め
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