のれの小さな愚作を恭々《うやうや》しくつみ重ねながら、巨匠の考えを補ってるのだと思い込んでいた。
 クリストフはコリーヌの批評を聞いたために、ワグナー派の朗吟法の重苦しさやまた多くの醜さなどに、いっそう敏感となっていたので、言葉と歌とを劇中で併合させ叙唱《レシタチーヴ》の中に結合させるのは無意味なことで自然に反する手法ではないかと、疑念をもっていた。それはちょうど、馬と鳥とを同じ車につなごうとするようなものであった。言葉と歌とはそれぞれ自分の律動《リズム》をもっている。作者が両芸術の一方を犠牲にしておのれの好む方に勝利を得させようとするのならば、首肯できる。しかし両芸術間に妥協を求むるのは、両者をともに犠牲にすることだった。言葉がもはや言葉でなく歌がもはや歌でないのを、望むことだった。歌の広い流れが単調な掘割の両岸の間にはめ込まれるのを望み、言葉の美しい裸の手足が、身振りや歩行を妨げるりっぱな重い衣でまとわれるのを、望むことだった。その自由な運動を、なぜ両者に残してやらないのか? たとえば、軽快な足取りで小川のほとりをたどって、歩きながら夢想する美しい娘のようにだ。水の囁《ささや》きは
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