めた。それは容易ではなかった。谷へ降りるに従って、霧の中へ没していった。二、三の川を飛び越さなければならなかった。次には、甜菜《てんさい》の畑と耕耘《こううん》地との広々とした中に出た。とうていそれから出られないような気がした。平野はでこぼこしていた。高みとくぼみとが相つづいて、ともするところげそうだった。ついに、むやみと歩き回り、霞の中におぼれきった後、二人は突然数歩先に、土手の上の線路の照燈を見出した。二人は土手によじ上った。汽車に襲われる危険を冒して、線路に沿って進み、停車場から百メートルばかりの所まで行った。そこでまた街道にもどった。汽車が通る二十分前に駅へ着いた。ロールヘンの頼みがあったにもかかわらず、百姓はクリストフを置きざりにした。他の者らがどうなったか、また自分の財産がどうなったか、それを見に早く帰りたがったのである。
クリストフはライデン行きの切符を買った。ひっそりしてる三等待合所に一人で待った。腰掛の上にうとうとしていた駅員が、汽車が着くとやってきて、クリストフの切符を調べて、扉《とびら》を開いてくれた。車室の中にはだれもいなかった。列車の中のすべては眠っていた。野の中のすべては眠っていた。一人クリストフは、疲れていながらも眠れなかった。重い鉄の車輪で国境へ近く運ばれてゆくに従って、安全の地に脱したいという焦慮を感じてきた。一時間たてば自由になるはずだった。しかしそれまでの間に、ただ一言の通知でもあれば捕縛されるに違いなかった。……捕縛! 思っただけでも全身に反抗の気が湧《わ》いた。嫌悪《けんお》すべき暴力によって窒息させられる!……そう思うと息もつけなかった。別れてゆく母も故国も、彼の念頭には浮かばなかった。自分の自由が脅かされてるという利己的な考えのうちに、救いたいその自由のことをしか考えなかった。いかなる価を払っても! そうだ、たとい罪悪を犯しても……。国境まで歩きつづけないでこの汽車に乗ったことを、彼は苦々《にがにが》しくみずから責めた。それもただ数時間節約したかったのみである。それがなんの足しになろう! 狼《おおかみ》の口に飛び込もうとするようなものだった。確かに国境の駅で網を張られてるに違いなかった。命令が発せられてるに違いなかった……。彼は一時、停車場へ着く前に進行中の汽車から飛び降りようかと考えた。車室の扉《とびら》を開きまでした。しかしもう遅《おそ》かった。到着しかけていた。汽車は止まった。五分間。それが永遠のように思われた。クリストフは部屋の奥に飛びのき、窓掛の後ろに隠れて、不安にプラットホームを眺めた。そこには一人の憲兵がじっと立っていた。駅長が一通の電報を手にして、駅長室から出て来、あわただしく憲兵の方へ進んでいった。クリストフは自分に関することだと疑わなかった。彼は武器を捜した。二枚刃の丈夫なナイフよりほかに何もなかった。彼はポケットの中でそれを開いた。胸に角燈をかざした一人の駅員が、駅長とすれ違って、列車に沿って駆けてきた。クリストフはその駅員がやって来るのを見た。彼はポケットの中でナイフの柄を握りしめて、考えた。
「もう駄目《だめ》だ!」
彼は極度に興奮していたから、もしその駅員がおり悪《あ》しくも、彼の方へやって来て彼の車室へはいろうとしたら、その胸にナイフを刺し通したかもしれなかった。しかし駅員は隣りの車室に立ち止まって、今乗った一乗客の切符を調べた。列車はまた進行しだした。クリストフは胸の動悸《どうき》を押し静めた。身動きもしなかった。助かったともまだ思いかねていた。国境を越えないうちはそう思いたくなかった。……夜が明け始めた。木立の姿が闇《やみ》から出てきた。一つの馬車が、鈴音をたて燈火をちらつかせながら、幽霊のように街道を通っていった……。クリストフは車窓に顔をくっつけて、版図の境界を示す帝国章のついた標柱を見ようとつとめた。汽車がベルギーの最初の駅へ到着する汽笛を鳴らした時、彼はまだその標柱を夜明けの光の中に捜していた。
彼は立ち上がった。扉《とびら》をすっかり開《あ》け放した。冷たい空気を吸い込んだ。自由! 前途に横たわってる全|生涯《しょうがい》! 生きる喜び!……――そして間もなく、残してきたものにたいする悲しみが、これから見出そうとするものにたいする悲しみが、一時に彼の上へ襲いかかった。一夜じゅうの激情の疲れが彼を圧倒した。彼はがっくりと腰掛に身を落した。停車場へ着くまでにはわずか一分あるかなしかだった。その一分間後に、一人の駅員が車室の扉を開くと、クリストフの寝姿を見出した。クリストフは腕を揺られて眼を覚《さ》まし、一時間も眠ったような気がして変だった。重々しく汽車から降りて、税関へやって行った。そして、もうすっかり他国の領土へはいってしまい、もはや
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