れにも劣らず急いでいた。
ロールヘンは、クリストフとともに別の室へはいった。クリストフはなお躊躇《ちゅうちょ》していた。もう母を抱擁することもないかと思うと、悲痛の情に堪えなかった。いつになったらまた会えるだろう? あんなに年老い、疲れはて、一人ぽっちである。この新しい打撃にまいってしまうかもしれない。自分がいなかったら、どうなるだろう?……しかし、自分がとどまっていて、処刑され、幾年も禁錮されたら、母はどうなるだろう? 母にとってはそれの方が、確かに孤独であり悲惨であるに違いない。たとい遠くにいようともせめて自由であれば、母の助けとなることもできるし、また母の方からやって来ることもできよう。――彼は自分の考えを明らかに見分ける隙《ひま》がなかった。ロールヘンは彼の両手を取り、すぐそばに立って、彼をながめていた。二人の顔はほとんど触れ合っていた。彼女は彼の首に両腕を投げかけて、その口に接吻《せっぷん》した。
「早く、早く!」と彼女はテーブルを指《さ》しながらごく低く言った。
彼はもう考えようとしなかった。テーブルにすわった。彼女は一冊の出納簿から、赤の方罫《ほうけい》がついてる紙を一枚裂き取った。
彼は書いた。
[#ここから2字下げ]
お母さん許してください。たいへんな御心配をかけることになりました。他に仕方もなかったのです。私は少しも間違ったことをしたのではありません。けれども今、逃げ出して国を去らなければなりません。この手紙をお届けする人が、すっかり申し上げますでしょう。私はお別れの言葉を親しく申したかったのです。しかし皆が承知しません。その前に捕えられるだろうと言います。私はほんとに悲しくて、もう意志の力もありません。私はこれから国境を越えます。けれども、お手紙をいただくまではすぐ近くにとどまっています。私の手紙をお届けする人が、御返事を私にもって来てくれますでしょう。私がどうすべきかおっしゃってください。何をおっしゃろうとも、そのとおりにいたします。私のもどるのがお望みでしたら、もどって来いとおっしゃってください。あなたを一人残すことは、考えてもたまりません。あなたはどうして暮らしてゆかれるでしょうか。許してください。許してくださいませ。私はあなたを愛してそして抱擁いたします……。
[#ここで字下げ終わり]
「早くしましょう、旦那。そうでないと間に合いません。」とロールヘンに心を寄せてる男が、扉《とびら》を半ば開いて言った。
クリストフはあわてて署名をし、手紙をロールヘンに渡した。
「自分で手渡ししてくれますか。」
「自分で行きます。」と彼女は言った。
彼女はもう出かけようとしていた。
「明日《あした》、」と彼女は言いつづけた、「返事をもって来ます。ライデン――(ドイツを出て第一の停車場)――で待っていてください、停車場のプラットホームの上で。」
(好奇《ものずき》な彼女は、後が手紙を書いてる間に、その肩越しに読んでしまっていたのである。)
「その時すっかりきかしてください、母がこの打撃に会ってどんなふうだったか、またどんなことを言ったかみんな。何も隠さないでしょうね。」とクリストフは懇願して言った。
「すっかり言います。」
二人はもう自由に話ができなかった。入口にはかの男が立って彼らを見ていた。
「そしてクリストフさん、」とロールヘンは言った、「私は時々お母さんを訪《たず》ねてあげましょう。お母さんの様子を知らしてあげましょう。心配してはいけません。」
彼女は男子のように元気な握手を彼に与えた。
「行きましょう。」と百姓は言った。
「行こう!」とクリストフは言った。
三人とも出かけた。途中で別れた。ロールヘンは一方へ行き、クリストフは案内者とともに他方へ行った。二人は少しも話をしなかった。靄《もや》に包まれた三日月が、森の彼方《かなた》に隠れていった。ほのかな光が野の上に漂っていた。低地には、牛乳のように白い濃い霧が立ちのぼっていた。震えてる木立が湿った空気に浸っていた……。村から出てわずか数分行くと、百姓はにわかに後ろへ飛びさがって、クリストフへ止まれという合図をした。二人は耳を澄ました。街道の前方から、一隊の兵士の歩調の音が近づいてきた。百姓は籬《まがき》をまたぎ越して、畑の中へはいった。クリストフも同様にした。二人は耕作地を横ぎって遠ざかった。街道を通る兵士の足音が聞こえた。暗闇《くらやみ》の中で百姓は彼らに拳《こぶし》を差し出した。クリストフは狩り出された獣のように、胸せまる思いをした。二人はまた街道に出たが、犬に吠《ほ》えられて人に知れられるので、村落や一軒家などを避けていった。木深い丘の向こうに出ると、鉄道線路の赤い火が遠くに見えた。その燈火で見当を定めて、第一の停車場へ行こうとき
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