身を護る要もなかったので、待合室の腰掛に長々と寝そべって、ぐっすり眠り込んでしまった。

 彼は午《ひる》ごろ眼を覚ました。ロールヘンは二時か三時より前には来るはずがなかった。彼は汽車の到着を待ちながら、その小駅のプラットホームの上を百歩ばかり歩いた。それからまっすぐに牧場の中へ行った。冬の来るのを思わせる灰色の陰気な日だった。日の光が眠っていた。運転されてるある列車の寂しい汽笛の音ばかりが、もの悲しい静けさを破っていた。クリストフは蕭条《しょうじょう》たる野の中で、国境から数歩の所に立ち止まった。彼の前にはごく小さな沼があった。いと清らかな水|溜《たま》りで、陰鬱《いんうつ》な空が反映していた。沼には柵《さく》がめぐらされて、二本の樹木が岸に立っていた。右手のは白楊樹《はくようじゅ》で、梢《こずえ》の葉は落ちつくして震えていた。後方のは大きな胡桃《くるみ》の木で、黒い裸の枝を差しのべて偉大な蛸《たこ》のような格好だった。まっ黒な実が房《ふさ》になって重々しく揺いでいた。枯れて散り残った木の葉がおのずから枝を離れて、静まり返ってる沼に一つ一つ落ちていた……。
 彼はそれらをかつて見たことがあるような気がした、その二本の樹《き》と沼とを……。――そして突然、彼は眩暈《めまい》の状態に陥った。それは生涯の平野に時おり開かれるものである。時《タイム》の中の穴である。自分はどこにいるのか、自分はだれであるのか、いかなる時代に生きているのか、幾世紀以来こうしているのか、もはやわからなくなってしまう。クリストフは、これはかつてあったことで、今のことは今あるのではなくて他の時にあったのだ、というような感じがした。彼はもはや彼自身ではなかった。彼は自分自身を、かつてここにこの場所に立っていた他人のようなふうに、外からごく遠くからながめていた。種々の見知らぬ思い出のざわめきが、耳には聞こえていた。彼の動脈は音をたてていた……。
 ――このように……このように……このように……。
 幾世紀もの唸《うな》り声……。
 彼以前のクラフト家の多くの人たちも、彼が今日受けてる試練を受け、郷土における最後の時間の悲嘆を味わったのだった。たえず放浪する血統、独立独歩と焦慮とのために至る所から追い払われる血統。どこにも定住するを許さない内心の悪魔から、常にさいなまれる血統。しかももぎ離される土地に執着して、それを捨て去ることのできない血統だった。
 こんどはクリストフの番となって、その同じ道程をまたたどってるのであった。そして彼は途上に、先だった人々の足跡を見出していた。彼は眼に涙をいっぱい浮かべて、祖国の土地が靄《もや》の中に消えゆくのをながめた。それに別れを告げなければならなかった。……彼は祖国を離れたいと熱望していたではないか?――そうだ。しかしほんとうに祖国を去る今となっては、苦悶《くもん》に身をしぼらるる心地がした。生まれた土地からなんらの感情もなく別れ得るものは、動物の心よりほかにない。幸福にせよ不幸にせよ、生まれた土地とともに暮らしたのだ。それは母であり伴侶《はんりょ》であった。その中に眠り、その上に眠り、それに浸されていた。その胸の中には、吾人の貴い夢が、吾人の過去の全生涯が、吾人の愛した人々の聖《きよ》い塵《ちり》が、蓄《たくわ》えられているのだ。クリストフは、自分の日々の生活と、その土地の上にまた下に残してる親愛な面影とを、眼前に思い浮かべた。彼にとっては、苦しみは喜びに劣らず貴いものだった。ミンナ、ザビーネ、アーダ、祖父、ゴットフリート叔父、シュルツ老人――すべてが数分間のうちに彼の眼に浮かんだ。彼はそれらの故人(アーダをも彼は故人のうちに数えていた)から身をもぎ離すことができなかった。愛する人々のうちでただ一人生き残ってる母を、それらの幽鬼中に残してゆくことを考えると、さらに堪えがたかった。彼はまた国境を越えてもどろうとした。それほど、逃亡を求めたことが卑怯《ひきょう》に思われた。ロールヘンがもたらすはずの母の返事に、もしもあまり大きな悲しみが現われていたら、どんなことがあっても帰ろうと決心した。しかし、もし何にも受け取らなかったら? もしロールヘンがルイザのもとまで行くことができないか、あるいは返事をもって来ることができないかしたら? やはり帰るとしよう。
 彼は停車場へもどった。侘《わ》びしく待ちあぐんだ後、ついに汽車が現われた。クリストフは車室のどの扉口《とぐち》かに、ロールヘンの精悍《せいかん》な顔つきを待ち受けた。彼女が約束を守ることを確信していたのである。しかし彼女は姿を見せなかった。彼は不安になって、車室から車室へと駆け回った。そして乗客の人波に駆けながらぶっつかってると、見覚えがあるように思われる一つの顔を認めた。十三、
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