ながら、心の騒ぎが鎮《しず》まるのを待っていた。彼は貴い歌曲集[#「歌曲集」に傍点]を胸に抱きしめて、子供のように笑っていた。
彼は一種の恍惚《こうこつ》のうちに孤独な日々を過ごした。もはや自分の病気や冬や佗《わび》しい光や孤独などのことを考えなかった。周囲のすべてが光り輝いて愛を含んでいた。死期に近づいていながら彼は、見知らぬ友の若い魂の中に生き返る心地がした。
彼はクリストフの様子を想像してみた。その想像は実際とはまったく違っていた。それはみずからこうありたいと思ってる姿だった。金髪で、痩《や》せ形で、眼は青く、やや弱い含み声で口をきき、穏和な内気なやさしい人物だった。実際がどうであろうとも、彼はやはりそれを理想化したがっていた。彼は周囲のすべての者を理想化していた、学生や隣人や友人や自分の老婢をも。彼の温和な性質と批評眼の欠如――あらゆる不穏な考えを避けるために半ばは自意識的な――とは、自分の周囲に、自分と同じく朗らかな浄《きよ》い面影を織り出していた。それは、彼が生きるために必要としてる温情の虚偽だった。しかし彼はそれにすっかり欺かれてばかりもいなかった。夜にしばしば寝床の中で、自分の理想と背馳《はいち》する種々なこまかい昼間の出来事を、思い浮かべては嘆息した。老婢のザロメが、付近の上《かみ》さんたちと陰で自分の悪口を言ってること、また毎週の会計をきまってごまかしてること、それを彼はよく知っていた。学生らが必要な間は自分におもねってるが、期待してる助けを受けてしまった後には、自分をうち捨ててしまうこと、それを彼はよく知っていた。隠退後は大学の古い同僚らからもすっかり忘れられてること、また自分の後継者が、自分の論説を名前も挙げないで盗み取り、あるいは名前を挙げる時には、不実なやり方をして、無価値な一句を引用したり、誤謬《ごびゅう》を拾い上げたりしてること(それは批評界によく行なわれてる方法であるが)、それを彼は知っていた。老友のクンツが今日の午後もまたひどい嘘《うそ》を言ったこと、も一人の友のポットペチミットが数日間と言って借りていった書物は、もういつまでも返されることがあるまいということ、それを彼は知っていた。右のことは、生きた人と同様に書物を愛惜してる彼のような者に取っては、非常に悲しいことだった。また古い新しい他の多くの悲しい事柄が、彼の頭に浮かんできた。彼はそれらを考えたくなかった。しかしそれらはいつまでもそこにあった。彼はそれらを感じた。それらのことの追憶が、刺すような苦痛をもって時々彼の心を過《よぎ》った。
「ああ、神よ、神よ!」
彼は静かな夜の中でうなった。――それから、不快な考えをすべて遠ざけた。それらを打ち消した。彼は信頼したかった、楽観したかった、人を信じたかった。そして人を信じていた。彼の幻は幾度か荒々しくこわされたことであろう!――しかしまた他の幻が浮かんできた、いつでも、いつでも……。彼は幻なしにはいられなかった。
見知らぬクリストフは、彼の生活のうちの光の焦点となった。最初に受け取った冷淡な無愛想《ぶあいそう》な手紙は、彼に苦しみを与えたはずだった。――(おそらく実際に与えたろう。)――しかし彼はそうだと認めたくなかった。そして子供らしい喜びをさえ感じた。彼はいかにも謙譲であって、人に求むることがいかにも少なかったから、人から受けるわずかなもので、人を愛し人に感謝したいという要求を満たすに足りるのであった。クリストフに会うなどとは、望みも得ない幸福だった。今ではライン河畔まで旅するにはあまりに年老いていたし、また向こうからの訪問を願うことは、思いもつかなかったのである。
クリストフの電報は、夕方彼が食事についてる時に到着した。彼は最初理解しかねた。知らない人からのように思われた。間違ったのでないかしら、他人あてのではないかしら、とも考えた。三度よみ返してみた。心が乱れていたし、眼鏡はよくかかっていず、ランプの光は鈍くて、文字が眼の前で踊っていた。ようやくそれとわかると、彼は心が転倒して、食事を忘れてしまった。ザロメがいくら呼びかけても無駄《むだ》だった。彼は一口も飲み下すことができなかった。いつでもかならずたたむ胸布《ナフキン》を、そのまま食事の上に放《ほう》り出した。よろめきながら立ち上がり、帽子と杖《つえ》とを取りに行き、そして出かけた。かかる幸福を得て、善良なシュルツがまっ先に考えたことは、他人にもその幸福を分かつことであり、クリストフが来るのを友人らに知らせることであった。
彼は同じく音楽好きな二人の友をもっていて、クリストフにたいする自分の感激を伝えていた。判事のザムエル・クンツと、歯医者のオスカール・ポットペチミットとであった。後者は秀《ひい》でた歌手だった。三人の老
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