いに解いてから、眼鏡をかけ、楽曲を読み始めた。彼の考えは他に向いていた。避けたい追憶の方へいつも考えがもどってゆくのであった。
彼の眼は古い聖歌の上に落ちた。クリストフが十七世紀の素朴《そぼく》敬虔《けいけん》な詩人の言葉を借りてきて、その調子を一新したものであって、パウル・ゲルハルトのキリスト教徒の旅人の歌[#「キリスト教徒の旅人の歌」に傍点]であった。
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希望せよ、憐《あわ》れなる魂、
希望をかけよ、勇ましかれ!
………………
待てよ、ただ待てよかし。
美わしき喜びの太陽《ひ》を、
やがて汝《なんじ》は見るならん。
[#ここで字下げ終わり]
シュルツ老人はそれらの誠実な言葉をよく知っていた。しかしそれらが彼に話しかけてくれるのは、かつてそんなふうにではなかった……。それはもはや、その単調さによって人の魂を静め眠らしてくれる平静な信仰心ではなかった。それは彼の魂と同じような魂であり、彼自身の魂であり、しかも、さらに若くさらに強く、苦しみながら希望をかけ、喜びを見んと欲しつつ喜びを見てる魂であった。彼の手はうち震えた。大粒の涙が頬《ほお》に流れた。彼は読みつづけた。
[#ここから3字下げ]
起《た》てよ、振い起てよかし!
悲哀と懸念を捨て去れよ!
心を乱し悲しむるものを、
汝が許《もと》より去らしめよ!
[#ここで字下げ終わり]
クリストフはそれらの思想に、若い大胆な熱情を伝えていた。その勇壮な笑いは、信じきった率直な最後の句に花を開いていた。
[#ここから3字下げ]
凡《すべ》てを統《す》べ導くものは、
げに汝《なんじ》には非ざるなり。
そは神なり。神は王にして、
凡《すべ》てを適宜に導くなれ!
[#ここで字下げ終わり]
そして彼が、若い野人の傲慢《ごうまん》さをもって、原詩の中の元の場所から平気で引き抜き、自分の歌曲《リード》の結末としている、壮大なる軽侮の一|連《れん》はやって来た。
[#ここから3字下げ]
あらゆる悪魔うち寄りて、
それに反抗なさんとも、
平然たれ、疑うなかれ!
神は退くものならず。
神の企《たく》みしことはみな、
遂《と》げんと欲せしことはみな、
ついにかならず成るならむ、
神は目的を果すなり!
[#ここで字下げ終わり]
……すると、それは歓喜の頂点であり、戦闘の陶酔であり、ローマ大将軍の凱旋《がいせん》であった。
老人は身体じゅうを震わした。あたかも友だちから手を取られて駆けさせられる子供のように、あえぎながらその厳《おごそ》かな音楽についていった。胸が動悸《どうき》した。涙が流れた。彼はつぶやいた。
「ああ、神よ!……神よ!……」
彼はすすり泣きを始め、また笑っていた。幸福だった。息がつまった。激しく咳《せ》きこんだ。老婢《ろうひ》のザロメが駆けつけてきた。彼女は老人が死にかけてるのかと思った。彼はなお続けて、涙を流し咳《せ》きこみ、そしてくり返していた。
「ああ神よ!……神よ!……」
そして咳の発作から発作へ移る短い間の時間に、彼は快い鋭い笑いをもらしていた。
ザロメは彼が狂人になったのだと思った。それから、その激情の原因を知ると、彼を荒々しく責めたてた。
「つまらないことでそんなになるということがあるものですか!……それを私にお渡しなさい。もっていってしまいます。もうあなたにはお目にかけません。」
しかし老人は、なお咳き込みながらもしっかりしていた。構わないでくれとザロメに叫んだ。彼女が強情を張ると、彼は癇癪《かんしゃく》を起こし、怒鳴りつけ、喉《のど》をつまらしながらののしった。彼女はかつて、彼がそんなに憤って対抗してくるのを、見たことがなかった。彼女はびっくりして、手を引いた。しかしきびしい言葉をやめなかった。彼を狂人爺《きちがいじい》さんだとして、言い進んだ、今まではりっぱな人だと思っていたが、しかしそれは自分の思い違いだった、車夫でさえ顔を赤らめるようなひどいことを言い、眼は顔から飛び出し、その眼がもしピストルだったら、自分は殺されるところだった、などと……。彼女のそういう悪態はいつまでつづくかわからなかった。しかし彼は猛然と枕《まくら》蒲団《ふとん》の上に身を起こして叫んだ。
「出て行きなさい!」
それがいかにも厳然たる調子だったので、彼女は扉《とびら》をばたりと閉《し》めて出て行った。出て行きながらも、もういくら呼ばれたって来やしない、勝手に一人で怒鳴るがよい、などと言い捨てて行った。
そして、夜の影が広がり始めてる室の中には、ふたたび静寂が落ちて来た。会堂の鐘は夕《ゆうべ》の平和の中にふたたび、その落ち着いた奇怪な響きをたてていった。シュルツ老人は激昂《げっこう》したのをやや恥じながら、じっと身を反《そ》らしてあえぎ
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