鳴らした時は、十一時に近かった。家事取締女らしい様子のてきぱきした女が出て来た。彼女は彼をぶしつけにじろじろながめて、「旦那《だんな》様は疲れていらっしゃるからお目にはかかれません、」とまず言い出した。が次に、クリストフの顔に素朴《そぼく》な失望の色が浮かんだのを見て、きっと興味を覚えたのであろう、彼の全身を厚かましく見調べた後に、突然調子を和らげ、ハスレルの書斎に通して、会えるようにしてあげようと言った。そして横目でちらと彼を見やってから、扉《とびら》を閉《し》めた。
印象派の絵画やフランス十八世紀の優雅な版画などが、壁にはかかっていた。ハスレルはあらゆる芸術に通じてると自称していたのである。そして自分の党与から指示されたとおりに従って、マネーとワットーとを自分の趣味の中に結合していた。様式の同様な混合が、家具の配置にも現われていた。ルイ十五世式の非常にりっぱな机は、「新式」の肱掛椅子《ひじかけいす》数個と多彩の羽蒲団《はねぶとん》が山のように積んである東方式の安楽椅子とに、取り囲まれていた。扉には鏡が飾りつけてあった。日本の置物が、棚《たな》や暖炉の上にいっぱい並んでいた。その暖炉の上には、ハスレルの胸像が一つ厳然と控えていた。円卓の上の一つの盤の中には、警句や賛辞が書き入れてある、女歌手や女崇拝者や友人らの写真が、雑然と並んでいた。机の上は驚くほど乱雑をきわめていた。ピアノは開いたままだった。棚の上には埃《ほこり》がつもっていた。半ば吸いさしの葉巻が隅々にころがっていた……。
クリストフは隣室に、ぶつぶつ言ってる不機嫌《ふきげん》な声を聞いた。小間使の強い言葉がそれに答え返していた。ハスレルがあまり出て行きたくない様子を示してることは、明らかだった。また小間使がぜひともハスレルに出て行かせようとしてることも、明らかだった。彼女は少しの遠慮もなく、非常に馴《な》れ馴れしい答え方をしていた。その鋭い声は壁を通して聞こえてきた。クリストフは、主人に注意してる彼女の言葉を聞くと、落ち着けなかった。しかし主人は、少しも気を悪くしていなかった。否かえって、そういう失礼さを面白がってるかのようだった。そしてなおぶつぶつ不平を言いつづけながら、小間使をからかい、彼女を焦《じ》らして面白がっていた。ついにクリストフは、扉《とびら》の開く音を耳にし、たえず不平を言いまたからかいながらハスレルが、足を引きずってやって来るのを耳にした。
彼ははいってきた。クリストフは胸迫る思いをした。彼はハスレルを見覚えていた。ああむしろ見覚えがなかったら? それはまさしくハスレルであった、がまたハスレルではなかった。やはりその大きな額《ひたい》には皺《しわ》もなく、その滑《なめ》らかな顔は子供のようだった。しかし頭は禿《は》げ、身体は肥満し、顔色は黄色く、眠そうな様子をし、下唇は少したれ下がり、退屈そうな不機嫌《ふきげん》な口つきをしていた。肩を曲げ、はだけた上着のポケットに両手をつき込み、足には破れ靴《ぐつ》を引きずっていた。ボタンもかけ終わっていないズボンの上には、シャツがたくね上がっていた。彼は半ば眠っている眼でクリストフをながめた。クリストフが自分の名前をつぶやいても、その眼は輝かなかった。彼は無言のまま自動的な礼を返し、頭でクリストフに席をさし示し、溜息《ためいき》をつきながら安楽|椅子《いす》にどっかとすわり、その羽蒲団《はねぶとん》を身のまわりにつみ重ねた。クリストフはくり返した。
「前に一度……いろいろ御親切を……クリストフ・クラフトという者でございますが……。」
ハスレルは、安楽椅子に深くすわり込み、長い両足を組み合わせ、頤《あご》の高さまで来てる右|膝《ひざ》の上に、痩《や》せた両手を握り合わせていたが、答え返した。
「覚えないね。」
クリストフは喉《のど》をひきつらしながら、昔面会したことを向こうに思い出させようと試みた。しかしそういう親しい思い出を語ることは、いかなる事情においても彼には困難であった。そして目下の事情においては一つの苦悩であった。彼は文句にまごつき、適当な言葉が見当たらず、馬鹿なことを言っては顔を赤らめた。ハスレルはぼんやりした無関心な眼でじっと見つづけながら、彼を言い渋るままに放《ほう》っておいた。クリストフがようやく話を終えると、ハスレルはあたかも彼がまだ言いつづけるのを待ってるかのように、しばらく黙ったまま膝をゆすっていた。それから言った。
「そう……だがそんな話で若返りはしないね……。」
そして彼は伸びをした。
欠伸《あくび》をした後彼は言い添えた。
「……失敬……眠らなかったものだから……昨晩劇場で夜食をしたので……。」
そしてふたたび欠伸をした。
クリストフは今話したことについてハスレルか
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