らなんとか言ってもらいたかった。しかしハスレルは、その話に格別興味を覚えないで、もうなんとも言わなかった。そしてクリストフの身の上についても、なんらの問いをもかけなかった。欠伸をしてしまってから、尋ねた。
「前からベルリンへ来てるのかね。」
「今朝ついたばかりです。」とクリストフは言った。
「そう。」とハスレルは別に驚きもしないで言った。「宿屋はどこだい。」
 返辞を聞くふうもなく、彼は懶《ものう》げに身を起こし、呼鈴のボタンに手を伸ばし、そして鳴らした。
「ちょっとごめん。」と彼は言った。
 小間使が例の横柄《おうへい》な様子をして現われた。
「キティー、」と彼は言った、「今日は俺《おれ》に朝飯を食わせないつもりかい。」
「でも、」と彼女は言った、「お客様とごいっしょのところへ食べ物をもってまいってはいけないじゃございませんか。」
「なぜいけないんだい。」と彼は言いながら、嘲笑《ちょうしょう》的な瞬《またた》きでクリストフをさし示した。「この方は俺の精神を養ってくださる。俺は身体を養おうとするんだ。」
「人様の前で召し上がるのを恥ずかしいとはお思いなさらないのですか、動物園の獣のように。」
 ハスレルは怒りもせず、笑いだして、言葉を言い直してやった。
「飼われてる犬|猫《ねこ》のように、だろう。」
「でもまあもっておいで。」と彼は言いつづけた。「恥ずかしさもいっしょに食べてやろう。」
 彼女は肩をそびやかしながら出て行った。
 クリストフは、自分のしてることをハスレルがなお尋ねようともしないのを見て、ふたたび話の糸口を結ぼうとつとめた。田舎《いなか》における生活の困難なこと、人々の凡庸なこと、彼らの精神の偏狭なこと、孤独な情況のこと、などを話した。自分の心の苦悶を訴えて、同情を寄せてもらおうとつとめた。しかしハスレルは、安楽|椅子《いす》にうずくまり、頭を反《そ》り返らして羽蒲団《はねぶとん》にもたせかけ、眼を半ば閉じて、彼を話すままにしておいて、聞いてもいないようだった。あるいはまた、ちょっと眼瞼《まぶた》をあげて、田舎の人々に関する冷やかな皮肉や滑稽《こっけい》な警句を数語投げつけて、もっとうち解けた話をしようとするクリストフの気をくじいてしまった。――キティーはもどって来て、コーヒーやバタやハムなどの朝食の盆をもってきていた。彼女は脹《ふく》れ顔をして、紙の散らかってるまん中に机の上にそれを置いた。クリストフは、彼女が出て行くのを待って、苦しい話をまた始めた。言いつづけるのにたいへん骨が折れた。
 ハスレルは盆を自分の前に引き寄せていた。彼はコーヒーをついで唇《くちびる》をつけた。それから馴《な》れ馴れしい人のいいやや軽蔑《けいべつ》的な様子で、クリストフの話の途中をさえぎって、彼に勧めた。
「一杯どうだい。」
 クリストフは断わった。彼は文句の筋道をつなごうと骨折っていた。しかしますますまごついてきて、もう何を言ってるのかみずからわからなくなった。ハスレルの様子に気を奪われていた。ハスレルは皿《さら》を頤《あご》の下に置き、バタつきのパンやハムの切れを指でつまみ上げては、子供のように頬張《ほおば》っていた。でもクリストフはようようのことで、自分は作曲をしてるということや、ヘッベルのユーディット[#「ユーディット」に傍点]にたいする序曲を演奏さしたことがあるなどと、話すことができた。ハスレルは気も止めずに聞いていた。
「何を?」と彼は尋ねた。
 クリストフは序曲の題名をくり返した。
「ああ、なるほど。」とハスレルは言いながら、パンと指先とをいっしょにコーヒーの中に浸した。
 それきりだった。
 クリストフはがっかりして、立ち上がって帰ろうかとした。しかし長い旅行が無駄《むだ》になることを考えた。そして勇気を振るい起こしながら、自分の作を少しひいてお聞かせしたいと、口ごもりながら申し出た。その一言を聞くや否やハスレルはさえぎった。
「いやいや、僕にはわからないよ。」と彼は愚弄《ぐろう》的な多少侮辱的な皮肉の調子で言った。「それにまた、暇がないからね。」
 クリストフは眼に涙を浮かべた。しかし彼は、自作にたいするハスレルの意見を聞かないうちは、ここから出て行かないとみずから誓っていた。彼は困惑と憤慨との交った調子で言った。
「失礼ですが、あなたは昔、私の作を聞いてくれるとお約束なさいました。私はただそのために、ドイツの奥からやってまいったのです。どうか聞いてください。」
 ハスレルはそういう応対に馴《な》れていなかった。怒《おこ》って顔を赤らめ泣かんばかりになってるその無作法な青年を、彼はながめた。そして面白く思った。彼は懶《ものう》げに肩をそびやかしながら、指でピアノを指し示し、おかしな諦《あきら》めの様子で言った。

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