った。高潔な無邪気な事柄を時日の徐々たる破壊から防ぐだけの力もなく、もはや信じていないものをなお信じていると思い込むだけの虚偽もなし得ないで、彼は憤然と昔の記憶を嘲笑し去らんとつとめた。彼は南ドイツの性質をもっていた。怠惰柔弱で、過度の幸運や寒気や暑気に抵抗しがたく、自分の平衡を維持するためには、適度な気温を必要とする性質だった。彼はみずから知らないまにいつしか、人生の怠惰な享楽を事とするようになってしまった。みごとな珍味や、重々しい飲料や、無為の遊楽や、柔弱な思想などを好んでいた。彼は天分に豊かであって、時流に投じた放漫な音楽中にもなお天才の火花がひらめいてはいたけれど、彼の全芸術には右のことが仄《ほの》見えていた。自分の頽廃《たいはい》を彼はだれよりもよく感じていた。実を言えば、彼一人だけがそれを感じていた――しかも感ずるのは時々のことであって、もとより彼はそういう瞬間を避けたがっていた。そして一度そう感じた時には、暗黒な気分、利己的な配慮、健康の心配、などに浸り込んで人間ぎらいになった――昔自分の感激や憎悪《ぞうお》を刺激したような事柄にたいしてはことごとく無関心になって。

 そういう人のそばに、クリストフは慰安を求めに行ったのだった。雨の降る寒い朝、彼はいかばかりの希望をもって、その都会に到着したことだろう。彼の目には芸術における独立的精神の象徴たる人が、そこに住んでいたのだ。彼はその人から、友愛と勇気とに満ちた言葉を期待していた。彼がそういう言葉を必要としていたのは、不利なしかも必然な戦いをつづけてゆかんがためにであった。真の芸術家は、最後の一息まで、一日といえども武装を解かずに世間と戦いを交えなければならない。なぜなら、シルレルが言ったように、「公衆を相手にしての決して後悔なき唯一の関係[#「公衆を相手にしての決して後悔なき唯一の関係」に傍点]――それは戦いである[#「それは戦いである」に傍点]。」
 クリストフは非常に気が急《せ》いていて、停車場のとある旅館へ手荷物を預けるか預けないうちに、すぐ劇場へかけつけて、ハスレルの住所を尋ねた。ハスレルは市の中央からかなり遠い郊外に住んでいた。クリストフはパンをがつがつかじりながら、電車に乗った。目的地に近づくに従って、胸が動悸《どうき》してきた。
 ハスレルが住居を選んだ一郭の地は、逸品を得ようとする困難な努力にあくせくしてる博学な蛮勇を若いドイツが傾けつくしている、奇異な新しい建築法によって、ほとんど全部が建てられていた。卑俗な町のまん中に、なんらの特色もないまっすぐな街路に、いろんなものが突然そびえていた、エジプトの大|墓窟《ぼくつ》、ノールウェーの農家、修道院、城楼、万国博覧会の層楼、生気のない顔と一つの巨大な眼をもってる、地面にもぐり込んだ無脚のふくれ上がった家、地牢《ちろう》の鉄門、潜水艦の押しつぶされた扉《とびら》、鉄の箍《たが》、窓の鉄格子《てつごうし》についてる金色の隠花植物、表門の上に口を開《あ》いてる怪物、あちらこちらに、思いもかけぬところには皆敷いてある、青い瀬戸の敷き石、アダムとイヴとを示す雑色の切りはめ細工、不調和な色の瓦《かわら》でふいた家根、最上階には銃眼をうがち、頂上には異形の動物をすえ、一方には窓が一つもないが、他方には突然相並んで、方形や長方形のぽかんと開いてる多くの穴が、傷口みたいについてる、要塞《ようさい》式の家、裸壁の大きな面、その面からはただ一つの窓の所へ、不意に大きな露台が飛び出し、その露台はニーベルンゲン式の人像柱にささえられ、またその石の欄干からは、髭《ひげ》のはえた髪の濃い老人の、ベックリンの人魚のような男の、二つのとがった頭が飛び出していた。それらの牢獄みたいな人家の一つ――入口には巨人の裸体像が二つある低い二階建ての、古代エジプトの王宮に似た家――の破風《はふ》に、建築家はこう書きしるしていた。

[#ここから3字下げ]
ああ芸術家をして示さしめよ、
過去未来にまたとなき己が宇宙を。
[#ここで字下げ終わり]

 クリストフはハスレルのことばかり考えていたので、落ち着きのない眼でそれをながめ、少しも理解しようとはしなかった。彼は目ざす家へ到着した。最も簡単な――カロヴァンジャン式の――家の一つだった。内部は金目のかかった卑俗なぜいたくさを示していた。階段には、熱しすぎた暖房器の重い空気が漂っていた。狭い昇降機がついていた。しかしクリストフは、訪問の心構えをする隙《ひま》を得んがために、それに乗らなかった。感動のために足は震え心は躍《おど》りながら、その五階まで小足に上っていった。そのわずかな歩行の間に、ハスレルとの昔の会見、子供らしい心酔、祖父の面影などが、昨日のことのように彼の頭に浮かんだ。
 彼が入口の呼鈴を
前へ 次へ
全132ページ中86ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ロラン ロマン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング