満足していた。そして彼らが人生に求むるところのものはただ、生きること、ただパンだけを得ること、自分の思想を芸術の中に吐露すること、芸術家ならぬ単純真実なる二、三の善良な人々、もちろん彼らを理解はしないがしかし彼らを率直に愛する人々、それを見出すことばかりであった。――どうして彼ら以上に要求深くあり得られようか。人の求め得る幸福には限度がある。それ以上にたいしてはだれも要求の権利を有しない。過大の要求をなすことが許されるのは、自分自身にたいしてであって、他人にたいしてではない。」
そういう考えが彼の心を朗らかにしていた。そして彼は善良なる友ラインハルト夫妻をますます愛していた。この最後の情愛をも人々が争いに来ようとは、彼は思ってもいなかった。
彼は小都市の邪悪さを勘定に入れていなかった。しかし小都市の怨恨《えんこん》は執拗《しつよう》なものである――なんらの目的もないだけになおさら執拗である。おのれの欲するところを知ってる正しい恨みは、目的を達すれば鎮《しず》まってしまう。しかし倦怠《けんたい》のために悪を行なう者らは、決して武器を放さない。常に退屈しているからである。クリストフは彼らの無為閑散なところへ差し出された一つの餌食《えじき》であった。もちろん彼はもう打ち負かされていた。しかし彼はまいった様子を見せないだけの大胆さをそなえていた。彼はもはや何人《なんぴと》をも気にかけなかった。何物をも要求しなかった。人々は彼にたいしていかんともなし得なかった。彼は新しい友人らといっしょになって幸福だった。人々の噂《うわさ》や考えにはすべて無関心だった。それを彼らは許せなかった。――ラインハルト夫人はなおいっそう彼らをいらだたせた。彼女が全市に対抗してクリストフに公然と示してる友情は、彼の態度と同様に、世論にたいする挑戦の観があった。しかし善良なリーリ・ラインハルトは、何物にもまただれにも挑戦してはいなかった。他人に挑《いど》みかかろうとは思っていなかった。ただ他人の意見を求めないで、自分がよいと思ったことをなしてるのだった。ところが、それこそ最も悪い挑発であった。
人々は彼らの挙動をうかがっていた。彼らはうっかりしていた。一人は非常識であり、一人は迂濶《うかつ》だったので、いっしょに外出する時や、あるいは家で、夕方露台に肱《ひじ》をかけて談笑する時でさえ、慎重さを欠いていた。中傷の材料になるような馴《な》れ馴れしい素振りをも、知らず知らずやっていた。
ある朝、クリストフは無名の手紙を受取った。それには、下劣きわまる侮辱的な言葉で、彼をラインハルト夫人の情人であると誹謗《ひぼう》してあった。彼は呆然《ぼうぜん》とした。彼は彼女にたいして、ふざけた考えさえかつて起こしたことがなかった。彼はあまりに貞節であって、有夫姦《ゆうふかん》については清教徒的な恐怖の念をいだいていた。その不潔な共有を考えてみるだけでも、一種の嫌悪《けんお》を覚えた。友人の妻を奪うことは、犯罪のように思われたのである。そしてリーリ・ラインハルトは、彼にその罪を犯す気を起こさせるような女には、最も縁遠かったはずである。気の毒にも、彼女は少しも美しくはなかった。彼は情熱の口実さえもっていなかったはずである。
彼は恥ずかしい困った様子で、友人夫妻の家へ行った。そして同じ困惑の様子を見出した。彼らはおのおの、同様な手紙を受け取ったのであった。しかしたがいにそれと言い出しかねた。三人ともたがいに探り合いまた自分の心を探りながら、もう動くことも口をきくこともできないで、馬鹿な真似《まね》ばかりしていた。リーリ・ラインハルトの生来の無頓着《むとんじゃく》さがのさばって、ふと笑い出したり無法なことを言い出したりすると、にわかに良人《おっと》の眼つきかクリストフの眼つきかが彼女を狼狽《ろうばい》さした。手紙のことが彼女の頭にひらめいた。彼女はまごついた。クリストフもラインハルトもまごついた。そして各自に考えた。
「二人は知らないのかしら。」
けれども彼らは何にも言わないで、前と同じようにしてゆこうとつとめた。
しかし無名の手紙はなおつづいて来て、ますます侮辱的に卑猥《ひわい》になっていった。そのために彼らはいらだちと堪えがたい恥ずかしさとに陥った。手紙を受け取ってもたがいに隠していたが、また読まないで焼き捨てる力もなかった。彼らは震える手で封を切った。中の紙を開きながら絶望した。同じ問題にいくらか新しい変化を添えてる読むに恐ろしい事柄――害毒しようとつとむる精神が作り出した巧みな汚らわしい事柄――を読み取るとひそかに泣いた。執拗《しつよう》につきまとってくるこの悪者はいったい何奴だろうかと、彼らは捜しあぐんだ。
ある日、ラインハルト夫人は力もつきはてて、迫害を受けてる
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