もなく一人パリーに残って、ある中学校の寄宿舎にはいってるその若者にたいして、憐《あわ》れみ深い同情の念を示しながら、アントアネットの信頼を得てしまった。アントアネットが外国での就職を甘受したのも、半ばは弟の教育費を補助するためであった。しかし二人の憐れな若者は、たがいに離れて暮らすことができなかった。毎日手紙を書き合った。待ってる手紙が少し遅れても、どちらも病的な心配に駆られた、アントアネットはたえず弟のために心を痛めていた。弟は孤独の悲しさをいつも姉に隠すだけの勇気がなかった。彼の愁訴はいちいちアントアネットの心に、胸が裂かれるような強さで響いた。彼女は弟が苦しんでると考えては心痛し、病気であるがそれを隠してるのだとしばしば想像した。善良なラインハルト夫人は、それらの理由もない危惧《きぐ》について、幾度も親切に彼女をたしなめてやらなければならなかった。そしてしばらくは彼女を安心させることができた。――アントアネットの家庭や身分やまた心底については、夫人は何にも知ることができなかった。ちょっと問いかけられても、その若い女はひどく内気な様子で口をつぐんだ。彼女は教養があった。年齢よりませた経験をもってるらしかった。彼女は素朴《そぼく》であるとともにまた悟ってるらしく、敬虔《けいけん》であるとともにまた非空想的らしかった。この土地の機宜も温情もない家庭にはいっては、幸福でなかった。――どうして彼女がこの地を去ったかを、ラインハルト夫人はよく知っていなかった。人の噂《うわさ》によると不品行をしたそうだった。アンゲリカはそれを少しも信じなかった。それはこの愚かな邪悪な町にふさわしい忌むべき中傷であると、堅く信じ切っていた。しかしいろんな話はあった。だがそんな話なんかはどうでもいいではないか。
「そうですとも。」と首たれてクリストフは言った。
「でもとうとう行ってしまいました。」
「そしてたつ時になんと言いましたか。」
「ああ、その機会がありませんでしたの。」とリーリ・ラインハルトは言った。「ちょうど私はケルンへ二日間行っていました、帰って来ると、……もう遅い!……」と彼女は言葉を途切らしながら、お茶へ入れるシトロンをあまり遅くもって来た女中にあてつけた。
そして、生粋《きっすい》のドイツ人らが家常茶飯事にまで示す生来の厳格さをもって、彼女は厳《いか》めしく言い添えた。
「世の中のことはたいていそうですが、もう遅《おそ》い!」
(それはシトロンのことなのか途切れた話のことなのかわからなかった。)
彼女は言いつづけた。
「帰って来ますと、短い手紙が来ていました。私がしてやった種々なことのお礼を言い、パリーへ帰るということでした。住所は書き残してゆきませんでした。」
「それきり手紙をよこしませんか。」
「ええ何にも。」
クリストフは、あの悲しげな顔が夜の中に消えてゆくところを、ふたたびありありと思い浮かべた。列車の窓越しにこちらをながめている最後に見たとおりの眼が、一瞬間彼の前に現われた。
フランスの謎《なぞ》がいっそう執拗《しつよう》にふたたび提出された。クリストフはフランスを知ってると自称してるラインハルト夫人に尋ねて飽きなかった。そしてラインハルト夫人はかつてフランスに行ったこともないのに、彼になんでも教えてやった。ラインハルト氏はりっぱな愛国者で、夫人以上によくはフランスを知らず、フランスにたいする偏見でいっぱいになっていて、夫人の感激があまりひどくなると、時として控え目な態度を破ることもあったが、しかし夫人はさらに激しく主張しつづけた。そしてクリストフは何にも知らないくせに、信頼の心からそれにいっしょになっていた。
彼にとっては、リーリ・ラインハルトの記憶よりもなお貴《とうと》いものは、彼女の書物だった。彼女はフランスの書物で小さな文庫をこしらえていた。手当たり次第に買われた、学校の教科書や小説や脚本などがあった。フランスのことを知りたがっていながら何にも知っていないクリストフにとっては、ラインハルトが親切にも彼の勝手に任してくれる時には、それらの書物が宝のように思われた。
彼はまず、学校用の古い編纂《へんさん》書から、抜粋文集から、読み始めた。それはリーリ・ラインハルトやその良人にとって、学生時代に役だったものであった。まったく何も知らないフランス文学のうちに分け入ろうとするならば、まずそれから始めなければいけないと、ラインハルトは彼に確言した。クリストフはフランス文学を自分よりよく知ってる人たちをごく尊敬して、その言葉どおり正直に従った。そしてその晩から読み始めた。彼はまず、自分のもってる宝の概略を調べ上げようとつとめた。
彼は次のようなフランスの作家を知った。テオドール・アンリ・バロー、フランソア・ペティ
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