ることを許さなかった。ラインハルト夫妻は、小都市において前任者にたいする新来者の義務を規定する田舎の慣例を、十分念頭においていなかった。厳密に言えば、ラインハルト氏の方はまあ機械的に服従した。しかし夫人の方は、そういう役目を厭《いと》い窮屈を厭《いや》がって、それを一日一日と延ばした。訪問すべき人名表のうちから最も気楽そうなのを選んで、それを最初に済ました。他の訪問は際限なく延ばしておいた。この後者の部類に入れられた知名の人々は、かかる無礼を憤った。アンゲリカ・ラインハルト――(良人《おっと》から親しげにリーリと呼ばれていた)――は、やや自由な態度の女だった。儀式ばった調子を取ることができなかった。上の地位の人々をも馴《な》れ馴れしく呼びかけた。すると彼らは怒って真赤《まっか》になった。彼女は場合によっては、彼らの言葉に逆らうことをも恐れなかった。彼女はきわめて口数が多くて、頭に浮かんだことはなんでも言いたがった。時とするとあまりにばかばかしいことを言って、背後から人に笑われることもあった。また肺腑《はいふ》を刺す露骨な皮肉を言って、深い恨みを買うこともあった。そういう意地悪い言葉を言いたくなる時には、舌を噛《か》んで口に出すまいとした。しかし間に合わなかった。きわめて温良で敬意深い良人は、このことに関して彼女へ控え目な注意をよく与えた。すると彼女は彼を抱擁して、自分は馬鹿でお言葉はもっともだと言った。しかしすぐあとで、彼女はまたくり返すのだった。ことにある種のことは最も言ってならない場合や場所において、彼女はすぐにそれを口にのぼした。もしそれを言い出さなかったら身体が張り裂けるかもしれなかった。――彼女はクリストフと気が合うようにできていた。
 言ってならないから従って言いたくなる多くの変な事柄のうちでも、ドイツで行なわれてることとフランスで行なわれてることとの不穏当な比較を、彼女は何につけてもくり返した。彼女はドイツの生まれであった――(彼女ぐらいドイツ式な者はいなかった)――けれど、アルザスで育ち、アルザスのフランス人と交わったので、ラテン文明にひきつけられたのだった。多くのドイツ人やまた最も頑固《がんこ》そうに見える人々も、フランスから併合した地方においては、ラテン文明の魅力に抗することができないものである。なおありていに言えば、アンゲリカは北方のドイツ人と結婚し、純粋にゲルマン式な環境にはいって以来、その魅力は彼女にとって、反発心のためいっそう強くなったのであろう。
 クリストフに会った最初の晩から、彼女はいつもの持論をもち出した。彼女はフランス人の会話の愛すべき自由さをほめた。クリストフも相槌《あいづち》をうった。彼にとっては、フランスはコリーヌであった。美しい輝いた眼、にこやかな若々しい口、腹蔵ない自由な態度、いかにも調子のいい声。彼はそれについてもっと知りたくてたまらなかった。
 リーリ・ラインハルトは、クリストフと非常によく意見が合うので、手を打って喜んだ。
「残念ですわ、」と彼女は言った、「フランス人の若いお友だちがもうここにいないのは。でも仕方がなかったんです。よそへ行ってしまいました。」
 コリーヌの面影はすぐに消えてしまった。あたかも花火の輝きが消えて、暗い空の中に突然、星のやさしい深い光が現われるように、他の面影が、他の眼が、現われてきた。
「だれですか。」とクリストフはぎくりとして尋ねた。「若い家庭教師ではありませんか。」
「え!」とラインハルト夫人は言った、「あなたも御存じですか。」
 二人はその女の様子を述べた。どちらも同じ姿だった。
「あなたはその女《ひと》を御存じですね。」とクリストフはくり返した。「どうか知ってるだけのことを私に聞かしてください。」
 ラインハルト夫人は、自分たちは親友で万事をうち明け合った間柄だということから、まず話しだした。しかしその詳細に立ち入ると、彼女のいわゆる万事はごくつまらないことになってしまった。二人は初め他人の家で出会った。ラインハルト夫人の方からその若い女に交際を求めた。そして例の懇篤さで、話しに来てくれと招いた。若い女は二、三度やって来た。そして二人は話をした。けれども、好奇なリーリがその若いフランス婦人の生活を多少知るのも、そう容易なことではなかった。向こうは非常に慎み深かった。わずかずつ身の上話を引き出さなければならなかった。ラインハルト夫人は、彼女がアントアネット・ジャンナンという名前であることをまさしく知った。彼女には財産はなかった。家族としては、パリーに残ってる若い弟があるきりで、彼女は献身的にその弟を助けていた。たえずその弟のことを話していた。彼女が多少感情を吐露するのは、その話にばかりだった。そしてリーリ・ラインハルトは、両親もなく友だち
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