屋や板囲いの建築足場などが立ってる荒れ地を横ぎっていった。彼は殺害心を起こしていた。かかる侮辱を自分に加えた男を殺したかった……。がしかし、その男を殺したとて、あれらすべての人々の悪意が少しでも変わるであろうか。彼らの嘲笑《ちょうしょう》がまだ彼の耳には響いていた。彼らはあまりに多勢で、彼はどうともしようがなかった。彼らは彼を辱《はずかし》め押しつぶしてやろうと――他の多くのことにはそれぞれ意見を異にしていながら――皆一致していた。まったく訳のわからないことだった。彼らは彼を憎んでいた。いったい彼は彼ら皆に何をしたのであったか。彼は自分のうちに、美しいものを、人のためになり心を愉快ならしむるものをもっていて、それを語りたく思い、それを他人にも楽しませようと思ったのだ。そしたら彼らも自分と同様に楽しくなるだろうと思っていたのだ。たとい彼らはそれを味わい得なくとも、少なくとも彼の意向には感謝すべきだった。少なくとも、彼らは彼の思い違いの点を親しく注意してやり得るはずだった。しかしそうはしないで、彼の思想をいやに曲解して、それを侮辱し踏みにじり、彼を笑殺せんとして、意地悪い喜びにふけるとは、なんということだろう。彼は激昂《げっこう》のあまり、彼らの憎悪《ぞうお》心をなお誇張して考えていた。それらの凡庸《ぼんよう》な奴らがいだき得ない本気さをも、彼はそこに想像していた。
「俺《おれ》は彼らに何をしたか、」と彼はすすり泣いていた。子供のおり、初めて人間の悪意を知ったあの時のように、彼は息づまる心地がし、もう万事|駄目《だめ》だという気がしていた。
そしてふとあたりをながめ、足下を見ると、水車屋の小川の縁に出て、数年前父がおぼれた場所に来てることを、彼は気づいた。そして自分もおぼれて死にたいという考えがやにわに起こった。彼はすぐさま飛び込もうとした。
しかし、水の静明な瞳《ひとみ》に惑わされてのぞき込んだ時、ごく小さな一匹の小鳥が、そばの木の上で歌いだした――やたらに歌いだした。彼は黙然として耳を澄ました。水がささやいていた。柔らかな風になでられて起伏する、花時の小麦の戦《そよ》ぎが聞こえていた。白楊樹《はくようじゅ》が揺いでいた。路傍の籬《まがき》の向こうには、眼には見えなかったがある庭に蜜蜂《みつばち》の巣があって、その香《かん》ばしい音楽を空気中にみなぎらしていた。小川の向こう側には、瑪瑙《めのう》色に縁取った美しい眼の牝牛《めうし》が、うっとりと夢みていた。一人の金髪の少女が壁の縁に腰掛け、翼をそなえた小さな天使のように目荒な軽い背負い籠《かご》を肩にして、裸の足をぶらつかせ意味のない唄《うた》を歌いながら、やはりうっとりと夢みていた。遠く牧場の中には、一匹の白犬が大きな円を描いて飛び回っていた……。
クリストフは樹《き》によりかかって、春めいた大地をながめかつ聞いていた。それらのものの平和と喜悦とにとらえられた。忘れていたのだ、忘れていたのだ……。にわかに彼は、頬《ほお》をつけていた美しい樹を両腕に抱きしめた。地面に身を投げ出した。草の中に頭を埋めた。彼は激しく笑っていた、幸福に笑っていた。生命のあらゆる美が恵みが魅力が、彼を包み込み浸し込んだ。彼は考えた。「どうして、お前はこんなに美しいのか、そして彼ら――人間――はあんなに醜いのか?」
それはどうでもいいのだ! 彼は生命を愛していた、愛していたのだ。常に生命を愛するだろうということを、何物からも生命を奪われ得ないだろうということを、彼は感じた。彼は夢中になって大地を抱擁した。彼は生命を抱擁していた。
「僕はお前をもっている。お前は僕のものだ。彼らも僕からお前を奪うことはできない。なんとでもするがいい。僕を苦しませるがいい……。苦しむこと、それもやはり生きることだ!」
クリストフはまた勇ましく働きだした。「文士」などとよくも名づけられた奴ども、文飾家、無益な饒舌《じょうぜつ》家、新聞雑誌記者、批評家、芸術上の山師や商売人、それらとはもはやなんらの関係もつけたくなかった。また音楽家らの偏見や嫉妬《しっと》を攻撃して時間をつぶすことは、なおさらしたくなかった。彼らは彼を欲しなかったというのか。――よろしい、もう彼の方でも彼らを欲しなかった。彼はなすべき仕事をもっていた。それをなすことだ。宮廷は彼を解放した。彼はそれを感謝していた。彼は人々の敵意を感謝していた。これから一人静かに働き得るのだった。
ルイザは心から彼に賛成した。彼女はなんらの野心をももっていなかった。クラフト家の気質ではなかった。クリストフの父にも祖父にも似ていなかった。息子のために名誉をも世評をも希望してはいなかった。彼が富裕になり有名になったら、確かに彼女も喜ぶには違いなかった。しかしそれらの利得があま
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