は官邸へ伺候せられたいとのことだった。――朝はもう過ぎ去っていた。一時に近かった。クリストフはほとんど気にもしなかった。
「もう遅《おそ》い。」と彼は言った。「明日にしよう。」
 しかし母は気をもんだ。
「いえ、いえ、殿下にお目にかかるのを延ばせるものではないよ。すぐに行かなければいけません。大事な御用らしいから。」
 クリストフは肩をそびやかした。
「大事な御用ですって、あんな人たちに大事な話なんかあるもんですか。……僕に音楽上の意見でも聞かせたいんだろう。愉快だな!……ジーグフリート・マイエル(注―― Siegfried Meyer はドイツの諷刺家らが 〔Seine Majesta:t〕 陛下――皇帝――のことを仲間うちで言う時に用いた綽名《あだな》)と競争しようとの気まぐれを起こして、自分でもエジルの賛歌[#「エジルの賛歌」に傍点]みたいなものを作って人に示したいんだろう。僕は容赦はしない。こう言ってやろう。政治をなさるがいい、政治では殿下が御主人だ。いつも御道理《ごもっとも》だ。しかし芸術では、用心なさるがいい。芸術にふみ込んだら、羽飾りも兜《かぶと》も軍服も金銭も肩書も祖先も憲兵も、殿下についてはしない。……そしたら、どうです、殿下から何が残りますかって。」
 善良なルイザは、すべてを本気に取って、天に両腕を差し上げた。
「そんなことを言ってはいけません!……お前さんは狂者《きちがい》だ、狂者《きちがい》だ……。」
 彼は母の信じやすいのにつけ込んで、心配さして面白がった。けれどしまいには、無法な言葉があまりすぎたので、ルイザはからかわれてることに気づいた。彼女は背を向けた。
「ほんとに、しようのない人だ。」
 彼は笑いながら母を抱擁した。素敵もない機嫌《きげん》だった。散歩してるうちに彼は、りっぱな楽旨《テーマ》を見出したのだった。水中の魚のように、その楽旨が自分のうちに踊ってるのを感じていた。食事をしないうちは、官邸へ出かけようとしなかった。餓鬼のように貪《むさぼ》り食った。それからルイザは彼の身ごしらえを監督した。彼がまた彼女をじらし始めたからである。すり切れた服と埃《ほこり》だらけの靴《くつ》のままで構わない、と言い出した。それでも彼は鶫《つぐみ》のように口笛を吹いて管絃楽の各楽器を真似《まね》ながら、自分で服を着替え靴をみがいた。それが済むと、母は彼の様子を一通り見調べて、襟《えり》飾りをきちんと結び直してやった。彼はいつになくゆっくりしていた。なぜなら自分に満足していたから――そしてそれも、滅多にないことだった。出かけながら彼は、アデライド姫を誘拐《ゆうかい》しに行くのだと言った。それは大公爵の令嬢で、かなりきれいだった。ドイツのある小貴族に嫁しているが、数週間両親のもとへ帰って来ていた。昔クリストフが子供であったおり、彼に多少の同情を示してくれたことがあった。そして彼は彼女を好んでいた。ルイザは彼が恋してるのだと称していた。そして彼も冗談に、恋をしていた。
 彼は早く官邸へ行きつこうともしないで、商店の前をぶらついたり、往来に立ち止まって馴染《なじ》みの犬の頭をなでてやったりした。犬も彼と同様に呑気《のんき》で、日向《ひなた》にねそべって欠伸《あくび》をしていた。彼は官邸の広場をめぐらしてる無役な鉄柵《てつさく》を飛び越した。――寂しい広い方形の地で、建物にとり囲まれ、水の涸《か》れてる二つの噴水があり、額《ひたい》の皺《しわ》のような一本の径《みち》で分かたれてる、木陰のない同形の二つの花壇があった。径には砂がかきならされていて、両側には木鉢《きばち》の橙樹《だいだい》が並んでいた。広場の中央には、四|隅《すみ》に徳をかたどった飾りのついてる台石の上に、ルイ・フィリップ式の服装をした、無名の大公爵の銅像が立っていた。ベンチの上にただ一人の散歩者が、新聞を広げたまま居眠っていた。官邸の鉄門のところには、無駄《むだ》な哨兵《しょうへい》らが眠っていた。邸前の高壇の馬鹿な溝《みぞ》の後ろには、眠ってる二門の大砲が、眠ってる町の上に欠伸《あくび》をしていた。クリストフはそれらのものの鼻先で笑ってやった。
 彼は官邸へはいっても、公式の態度を取ろうとはしなかった。たかだか微吟をやめたばかりだった。なお楽想《がくそう》が踊りつづけていた。彼は玄関のテーブルの上に帽子を投げ出しながら、子供の時から知ってる受付の老人を親しげに呼びかけた。――(その好々爺《こうこうや》は、クリストフが祖父とともに初めて官邸へ伺って、ハスレルに会ったあの晩から、すでにその地位にいたのである。)――その老人は、クリストフの多少失礼な冗談にもよく答えるのを常としていたが、その時は、横柄《おうへい》な様子を示した。クリストフはそれに気を止め
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