なかった。それから少し奥へ行って控室で、彼は文書局の役人に出会った。いつも彼に親愛の様子を見せながら、盛んにおしゃべりをする男だった。ところが、その男が話を避けて急いで通り過ぎたので、彼はびっくりさせられた。が彼はそれらのことにこだわらないで、なお進んでいって案内を求めた。
彼ははいっていった。午餐《ごさん》が終わったところだった。殿下は客間にいた。暖炉を背にして、客たちと話しながら煙草《たばこ》をふかしていた。客のうちにクリストフは、自分の[#「自分の」に傍点]姫を認めた。彼女も煙草をふかしていた。そして肱掛椅子《ひじかけいす》にしどけなく身をよせかけて、まわりを取り巻いてる将校らに声高く話していた。会合はにぎやかだった。皆はすこぶる愉快そうだった。そしてクリストフははいって行きながら、大公爵の幅広い笑い声を聞いた。しかしクリストフの姿が彼の眼にとまると、その笑い声はぴたりとやんだ。彼は一つ唸《うな》り声をたてて、じかにクリストフめがけて大声に浴びせかけた。
「ああ来たな。どの顔でやって来たのか。お前はこのうえ私《わし》を馬鹿にするつもりなのか。お前は実に悪者だ。」
クリストフは真正面に受けたその砲弾に茫然《ぼうぜん》として、ちょっとの間一言も発することができなかった。彼は自分の遅参のことばかり考えていた。遅参したとてかかる乱暴な目に会う訳はなかった。彼はつぶやいた。
「殿下、私は何かいたしたのでございますか。」
殿下は耳を貸さなかった。勢い激しく言い進んだ。
「黙れ。私《わし》は悪者から侮辱されはしないぞ。」
クリストフは蒼《あお》くなりながら、喉《のど》がつまって言葉が出ないのをもがいた。彼は一生懸命になって叫んだ。
「殿下は不当です……不当であります、私が何をしたかおっしゃらずに、私を侮辱されるのは。」
大公爵は私書官の方をふり返った。私書官はポケットから一枚の新聞を取り出して、それを大公爵に差し出した。大公爵はひどく激昂《げっこう》していた。例の怒りっぽい性質からと言うだけでは不十分だった。芳醇な酒気も加わっていた。彼はクリストフの前に来てつっ立ち、闘牛士が外套《がいとう》を打ち振るように、広げた皺くちゃの新聞をクリストフの顔の前に激しく振り動かしながら、叫んだ。
「汚らわしい行ないだ。……こんなものに顔をつっ込むのがお前にはよく似合ってる。」
クリストフはそれが社会主義の新聞であることを知った。
「私は別に悪いとは思いません。」と彼は言った。
「なに、なんだと!」と大公爵は金切声で叫んだ。「不謹慎な!……この恥知らずの新聞めは、毎日|私《わし》を侮辱してるんだ、私に下劣な悪口を吐いてるんだ……。」
「殿下、」とクリストフは言った、「私はその新聞を読んだことがございません。」
「嘘《うそ》をつくな!」と大公爵は叫んだ。
「私は嘘をついてると言われたくありません。」とクリストフは言った。「読んだことはございません。私は音楽に関係してるだけであります。それにまた、どういうところへ書こうと、それは私の権利であります。」
「お前にはただ黙る権利しかないんだ。私《わし》はお前たちに親切すぎた。お前の不品行やお前の父の不品行によって、もう疾《とっ》くに追い払う理由があったにもかかわらず、お前たち一家の者に恩恵を施してやった。私はお前に、私と敵対する新聞につづけて書くことを禁ずる。それからまた、どんなことであろうとも、今後私の許可なくして書くことを一般に禁ずる。お前の音楽上の筆戦にはもうたくさんだ。私の保護を受けてる者が、趣味と心を有する人々にとって、ほんとうのドイツ人にとって、貴重であるあらゆるものを攻撃して、時間をつぶすのを私は許さない。お前はりっぱな音楽を書く方がよい。もしそれができなければ、音階や練習に精を出す方がよい。国家的光栄を誹謗《ひぼう》したり人々の精神を混乱さしたりして喜ぶ、音楽上のベーベルを私は欲しない。われわれはありがたくも、何がよいかを知っている。それを知るには、お前から説き聞かされるのを待つ要はない。だからお前はピアノに向かうがよい。そしてわれわれを平和にしておいてもらいたいのだ。」
でっぷり肥《ふと》った彼は、クリストフと顔を向き合わして、侮辱的な眼で相手の顔をうかがっていた。クリストフは色を失って、口をききたがっていた。その唇《くちびる》はかすかに動いていた。彼は口ごもりつつ言った。
「私は殿下の奴隷ではありません。言いたいことを言います、書きたいことを書きます……。」
彼は息をつまらしていた。恥辱と憤怒《ふんぬ》とに泣かんばかりになっていた。両足は震えていた。片|肱《ひじ》を急に動かしながら、傍《かたわ》らの家具に乗ってた器物をひっくり返した。自分の様子がいかにもおかしいのをはっきり
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