ニア[#「イフィゲニア」に傍点]の初日となった。全然失敗だった。ワルトハウスの雑誌は詩だけをほめて、音楽についてはなんとも言わなかった。他の新聞雑誌では大喜びだった。笑ったり非難したりした。その一篇は三日きりで引っ込められた。しかし嘲笑《ちょうしょう》はそう急にはやまなかった。人々はクリストフを嘲弄《ちょうろう》する機会を得たのでうれしがった。そしてイフィゲニア[#「イフィゲニア」に傍点]は、数週間の間尽きざる笑い事となった。クリストフにもう防御の武器がないことは知れわたっていた。人々はそれに乗じていた。ただ一つ、多少皆を控え目にさしたのは、宮廷における彼の地位であった。大公爵は幾度もくり返して彼に意見をし、彼は少しもそれを意に介しなかったので、両者の関係はかなり冷やかなものになっていたけれども、彼はやはり官邸へ伺候していた。そして一般から見れば、実際以上に大きく見えるのではあるが、とにかく一種の公の保護を受けてるのであった。――がその最後の支持をも、彼はみずから破壊し去ることになった。

 彼は悪評に苦しめられた。その悪評はただ彼の音楽にたいしてなされたのみでなく、また新芸術の形式に関する彼の考えにたいしてもなされた。人々はそれを理解しようとつとめなかった。(それを嘲笑するためには、曲解する方がよりたやすいことだった。)クリストフは、悪意ある非難にたいしてなし得る最上の返答は、なんらの弁駁《べんばく》をもなさないで創作しつづけることだと考えるだけの聡明《そうめい》さを、まだもっていなかった。数か月以来、いかなる不当な攻撃にも答え返さないでは済まさないという、悪い習慣に染んでいた。で彼は、敵を少しも容赦しない論説を一つ書いた。そして二つの新聞へもち込んだ。ところが思慮深い新聞社の方では、それを掲載し得ないと皮肉な丁重さで詫《わ》びながら、彼のもとへ返してきた。クリストフは意地を張った。かつて助力を頼んで来たことのある同地の社会主義新聞を思い出した。その編集者の一人を知っていた。時々いっしょに話をしたこともあった。権力や軍隊や圧迫的な古めかしい偏見などについて、自由な意見を吐く者を見出すと、クリストフはうれしかった。しかし二人の話は深く進み得なかった。なぜなら、社会主義者との談話はかならずカール・マルクスのことに落ちて行くが、マルクスはクリストフにとって絶対に無関係であったから。そのうえクリストフは、自由思想家――彼があまり好まない唯物主義者でもある男――の談話のうちに、一つの衒学《げんがく》的な峻厳《しゅんげん》さと思想上の専制主義、力にたいするひそかな崇拝、反対の意味の軍国主義、などを見出したが、それは彼が毎日ドイツで聞いているところのものと、たいして違った響きはもっていなかったのである。
 しかしながら、他の編集所が自分にたいして扉《とびら》を閉ざすのを見た時、彼が思いついたのはその男とその新聞とであった。かかる手段が物議をかもすだろうとは彼もよく考えた。その新聞は激烈で憎悪《ぞうお》的で、たえず禁止されていた。しかしクリストフはそれを読んでいなかったので、彼にとっては恐るるに当たらない思想の勇敢さを考えついて、彼にとっては嫌悪《けんお》すべき調子の下劣さを考えつかなかった。それにまた彼は、彼を窒息させんために他の諸新聞が陰険な共謀をめぐらしてるのを見て、非常に猛《たけ》りたっていたので、たとい事情にもっとよく通じていても、おそらく気にかけなかったであろう。そうたやすく駆逐されるものではないことを、人々に示してやりたかった。――それで彼は、社会主義新聞社に論説をもち込んだ。すると双手を挙げて歓迎された。翌日、その論説は現われた。そして新聞は誇張的な言辞で報ずるのに、才幹ある青年楽匠たるクラフト君の協力を得たこと、労働階級の要求にたいする彼の熱烈な同情は世間周知のものであること、などをもってした。
 クリストフはその注解をも自分の論説をも読まなかった。なぜなら、ちょうど日曜であったその朝、彼は野外散歩に払暁から出かけたのだった。実に晴れ晴れとした気持だった。日の出を見ながら彼は、叫び笑い歌い飛び踊った。もはや雑誌もなく、もはや批評の責任もなかった。時は春であった。あらゆる音楽のうちで最も美しい天と地との音楽が復帰していた。息苦しい臭い薄暗い音楽会場も、不愉快な隣席の聴衆も、つまらない音楽家らも、消えてなくなった。ささやきわたる森から霊妙な歌の起こるのが聞こえていた。そして畑地の上には、大地の表皮を破って生命の芳醇《ほうじゅん》な気が通り過ぎていた。
 彼は光明で鳴りわたる頭をもって、散歩から帰ってきた。すると、不在中に官邸から届けられた手紙を、母から渡された。だれからともつかない形式で書かれたその手紙の趣旨は、今朝クラフト氏
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