ていた。半ば眼瞼《まぶた》を閉じ、うとうとしながら、車室の片隅《かたすみ》によりかかって、彼は自分の眼の上に彼女の眼の接触を感じていた。そしてそれをなおよく感ずるために、あらゆる他の考えは沈黙してしまった。窓ガラスの外側で羽ばたきしてる昆虫《こんちゅう》のように、コリーヌの面影が彼の心の外で飛び回っていたが、彼はそれを心の中にはいらせなかった。
 汽車が向こうに着いて車室から出で、夜のさわやかな空気を吸い寝静まった街路を歩いて、ようやくはっきりした気持になった時、彼はまたコリーヌの面影を見出した。彼女のやさしい様子や卑しい媚《こ》びを思い出すにつれて、喜びといらだちとの交った気持で、その可憐な女優のことを考えては微笑《ほほえ》んだ。
「しようのないフランス人だ!」と彼は低い笑いとともにつぶやきながら、そばに眠っている母が眼を覚《さ》まさないように、そっと着物をぬぎかけた。
 すると先夜|桟敷《ボックス》の中で聞いた一語が、ふと頭に浮かんできた。
「そうでない者もいます。」
 彼は初めてフランスに接触してから、その二重性質の謎《なぞ》をかけられた。しかしあらゆるドイツ人と同じく、彼は謎を解こうとも思わなかった。そして車室の若い女のことを考えながら、平気でくり返した。
「あの女はフランス人らしくない。」
 あたかも、いかなるものがフランス的であり、いかなるものがフランス的でないか、それを説明するのはドイツ人の役目ででもあるかのように。

 フランス人であろうとあるまいと、彼女は彼の心を占めていた。彼は夜中に、切ない気持で眼を覚ました。あの若い女のそばに腰掛に置かれていた鞄《かばん》を、思い出したのだった。そして突然、彼女はまったく立ち去ってしまったのだという考えが頭に浮かんだ。実を言えば、その考えは最初から彼に起こるべきだったが、彼は思いつかなかったのである。彼はひそかな悲しみを感じた。彼は寝床の中で肩をそびやかした。
「それが俺《おれ》になんの関《かか》わりがあろう。」と彼は考えた。「俺の知ったことではない。」
 彼はまた眠りに入った。
 しかし、翌日彼が外に出て最初に出会ったのは、マンハイムだった。マンハイムは彼を「ブリューヘル」と呼び、フランス全体を征服するつもりかと尋ねた。そして彼はこの生きた新聞から、あの桟敷《ボックス》の一件が大成功で、マンハイムの期待以上だったということを、聞き知った。
「君は実に偉い!」とマンハイムは叫んだ。「僕なんか比べものにもなりゃしない。」
「僕がどうしたというんだい!」とクリストフは言った。
「君には感服だ!」とマンハイムは言った。「僕はうらやましいよ。桟敷を奪ってグリューネバウムの奴《やつ》らに鼻をあかしながら、その家のフランス語の家庭教師を代わりに招待するなんて……いや、花輪でもささげたいくらいだ。僕には考えもつかなかった。」
「グリューネバウムの家の家庭教師だったのかい?」とクリストフは茫然《ぼうぜん》として言った。
「そうだ。知らないふりをするがいいよ、罪のないふうをするがいいよ。僕もそれを勧めるね。……親父《おやじ》はもう心を和らげまい。グリューネバウムたちはたいへん怒ってる。……気長い話じゃないんだ。女を追っ払っちゃったよ。」
「なに、」とクリストフは叫んだ、「追い出したって!……僕のために追い出したのかい?」
「君は知らないのか。」とマンハイムは言った。「あの女は君に言わなかったのか。」
 クリストフは心が暗くなった。
「気をもむには及ばないよ、君、」とマンハイムは言った、「大したことじゃないからね。それに、どうせそうなるにきまってるよ、いつかグリューネバウムたちに知られたら……。」
「何を?」とクリストフは叫んだ、「何を知られるんだい。」
「君の情婦だということをさ。」
「僕はあの女を知りもしないよ。名前さえ知らないんだ。」
 マンハイムは微笑した。その意味はこうだった。
「君は僕を間抜けだと思ってるんだね。」
 クリストフは腹をたてた。自分の断言することを信じてくれとマンハイムに迫った。マンハイムは言った。
「それではなおさらおかしな話だね。」
 クリストフはいきりたって、グリューネバウムたちに会いに行き、事実を物語り、あの女のあかしをたてる、と言い出した。マンハイムはそれを諌《いさ》めた。
「ねえ君、」と彼は言った、「君がどんなに説きたてても、反対のことをますます信じさせるばかりじゃないか。それにもう手後《ておく》れだよ。今時分あの女は遠くに行ってるだろう。」
 クリストフは悲痛な気持になって、その若いフランス婦人の行くえを捜そうとつとめた。彼女に手紙を書いて許しを乞《こ》いたかった。しかしだれも彼女のことをまったく知らなかった。グリューネバウム家の人たちに尋ねたが、ただ
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