追い返されてしまった。彼ら自身も彼女がどこへ行ったか知らなかった、そして平気でいた。クリストフは、悪いことをしたという考えに悩まされた。それは絶え間ない苛責《かしゃく》だった。なおそれには、消え去った彼女の眼から彼の上へ静かに輝き渡る神秘な誘惑が、つけ加わっていた。その誘惑と苛責とは、新しい日月と新しい考えとの波に覆《おお》われて、消えてゆくようにも思われた。しかし底の方に人知れず残存していた。クリストフは彼女を自分の犠牲と呼んで、少しも忘れなかった。も一度めぐり会おうとみずから誓った。その再会がいかに望み少ないかはよくわかっていた。しかもかならず再会することができると信じていた。
 コリーヌの方は、彼が書き送る手紙に少しも返事をくれなかった。しかし三か月後に、彼がもう何にも待っていない時に、四十語の電報が届いた。その中で彼女は、うれしげなつまらないことを言い散らし、彼に親しげなかわいい言葉をかけ、「相変わらず愛し合ってるのね」と尋ねていた。それからなんの便りもなくて一年ばかり過ぎた後、子供らしい曲がりくねった大きな字体で、しかも貴婦人らしく見せかけようとつとめながら書きなぐった、一片の手紙――かわいいおどけた数語――が来た。そして、それきりだった。彼女は彼を忘れてはいなかった。しかし彼のことを考える隙《ひま》がなかった。

 コリーヌの魅力にまだとらえられており、彼女と話し合った考えで頭がいっぱいになっていて、クリストフは、彼女が若干の歌曲を歌いながら演ずるはずの戯曲のために――一種の詩的|插楽劇《メロドラマ》のために、音楽を書こうと空想した。この種の芸術は、かつてドイツでもてはやされ、モーツァルトから熱心に鑑賞され、ベートーヴェンやウェーバーやメンデルスゾーンやシューマンやまたあらゆる古典的楽匠らによって、実際試みられたものであるが、劇と音楽の決定的様式を実現したと自称するワグナー派の勝利以来、すっかり廃《すた》れたのであった。厚顔な衒学《げんがく》的なワグナー派は、新しい插楽劇《メロドラマ》をすべて排斥するだけで満足せず、古い插楽劇《メロドラマ》を飾りたてようとつとめた。彼らは話される対話の痕跡《こんせき》を歌劇《オペラ》から注意深く消し去って、モーツァルトやベートーヴェンやウェーバーらの作品のために、自己流の叙唱《レシタチーヴ》を書いた。それらの傑作の上におのれの小さな愚作を恭々《うやうや》しくつみ重ねながら、巨匠の考えを補ってるのだと思い込んでいた。
 クリストフはコリーヌの批評を聞いたために、ワグナー派の朗吟法の重苦しさやまた多くの醜さなどに、いっそう敏感となっていたので、言葉と歌とを劇中で併合させ叙唱《レシタチーヴ》の中に結合させるのは無意味なことで自然に反する手法ではないかと、疑念をもっていた。それはちょうど、馬と鳥とを同じ車につなごうとするようなものであった。言葉と歌とはそれぞれ自分の律動《リズム》をもっている。作者が両芸術の一方を犠牲にしておのれの好む方に勝利を得させようとするのならば、首肯できる。しかし両芸術間に妥協を求むるのは、両者をともに犠牲にすることだった。言葉がもはや言葉でなく歌がもはや歌でないのを、望むことだった。歌の広い流れが単調な掘割の両岸の間にはめ込まれるのを望み、言葉の美しい裸の手足が、身振りや歩行を妨げるりっぱな重い衣でまとわれるのを、望むことだった。その自由な運動を、なぜ両者に残してやらないのか? たとえば、軽快な足取りで小川のほとりをたどって、歩きながら夢想する美しい娘のようにだ。水の囁《ささや》きは彼女の夢想を揺《ゆす》り、彼女は知らず知らずに、自分の歩みの律動《リズム》を小川の歌に合わしてゆく。かくて音楽と詩とはともに自由のままで、その夢想をないまぜながら、相並んで進んでゆくだろう。――もちろんかかる結合においては、どの音楽もりっぱだとは言えなかったし、詩もまたそうであった。插楽劇《メロドラマ》の反対者らは、これまでなされた試みとその実演者たちとの粗笨《そほん》さにたいして、りっぱに攻撃の理由をもっていた。クリストフも長い間、同じように嫌悪《けんお》を感じていた。俳優らは、楽器の伴奏につれて物語ることだけを事とし、伴奏には気も配らず、自分の声をそれに合わせようともせず、反対に自分の言葉だけを聞かせようとつとめていて、その愚劣さ加減には、音楽的な耳に反感を起こさせるだけのものがあった。しかしながら、コリーヌのなごやかな声――流麗で純潔で、水中の一条の光線のように音楽の中に動きゆき、あらゆる旋律《メロディー》の句調に和合し得て、さらに流動自由な歌のようである声――それをクリストフは味わって以来、新芸術の美を瞥見《べっけん》したのであった。
 おそらく彼は至当であったろう。しかし彼は
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