思っていたある種の粗暴な和声《ハーモニー》にたいしては、あまり同感し得ないことを示した。彼女はそれに出会うと、一種の齟齬《そご》を感じた。そこにさしかかる前に歌うのをやめて、「ほんとうにそうなんですか、」と尋ねた。彼がそうだと答えると、ようやく思い切ってその困難にぶつかっていった。しかしそのあとで、彼女はちょっと口のあたりをゆがめた。クリストフはそれを見落さなかった。またしばしば、彼女はその小節を飛び越したがった。すると彼は、ピアノでくり返した。
「これ嫌《きら》いですね。」と彼は尋ねた。
 彼女は鼻をしかめた。
「違ってるわ。」と彼女は言った。
「いいえ。」と彼は笑いながら言った。「ほんとうです。意味を考えてごらんなさい。正しいじゃないですか、ここでは。」
 (彼は心臓を指《ゆびさ》した。)
 しかし彼女は頭を振った。
「そうかもしれないわ。でも違っててよ、こちらでは。」
 (彼女は耳を引っ張った。)
 彼女はまた、ドイツの朗吟法の大袈裟《おおげさ》な高声に、不快を感じてる様子だった。
「どうしてあんな大きい声をするんでしょう?」と彼女は尋ねた。「ただ一人なのに。隣りの人たちに聞こえても構わないのかしら。ちょうど……(ごめんなさい、怒《おこ》っちゃいやよ)……ちょうど渡し舟でも呼ぶようだわ。」
 彼は怒らなかった。心から笑っていた。そして多少当たってることを認めた。彼はそういう意見を面白がった。だれからもまだそんなことを言われたことがなかった。結局、朗吟法は拡大鏡のように自然の言葉を害《そこな》うことが最も多いというのに、二人は一致した。コリーヌは、ある戯曲の音楽を書いてくれと、クリストフに頼んだ。その芝居で彼女は、時々ある文句を歌いながら管弦楽《オーケストラ》の伴奏に合わして語りたいのだった。彼はその考えに夢中になった。舞台上の実現は困難であったが、コリーヌの音楽的な声なら、それに打ち勝ち得るように考えられた。そして二人は、未来の計画をたてた。
 彼らが出かけようと思いついた時には、もう五時近くなっていた。この季節には日の暮れるのが早かった。もはや散歩どころではなかった。その晩コリーヌには、劇場で下|稽古《げいこ》があった。それにはだれも列席することができなかった。予定の散歩をするため明日の午後誘いに来ることを、彼女は彼に約束さした。

 翌日も、も少しで同じ場面がくり返されるところだった。彼が訪ねてゆくと、コリーヌは鏡を前にして、高い腰掛にすわり足をぶらぶらさしていた。鬘《かつら》をためしてるのだった。衣裳方と一人の床屋とがそばにいた。彼女は巻毛をも少し高くしたいといって、床屋に種々注文をしていた。そして鏡をのぞいてる時に、自分の背後で微笑《ほほえ》んでるクリストフを鏡の中に見出した。彼女は舌を出してみせた。床屋は鬘をもって出て行った。彼女は快活にクリストフの方をふり向いた。
「今日は。」と彼女は言った。
 彼女は彼に接吻《せっぷん》させるため片|頬《ほお》を差し出した。彼はそれほどの親密を期待していなかった。しかしその機会を無駄《むだ》にはしなかった。彼女の方では、その恩恵をなんとも思っていなかった。彼女にとっては、ただ普通の「今日は」と同じものだった。
「ああうれしいこと!」と彼女は言った。「今晩はうまくゆくわ。――(彼女は鬘のことを言ってるのだった。)――ほんとうに悲しかったのよ。今朝いらしったら、私は困りきってるところだったわ。」
 彼はその理由を尋ねた。
 それは、パリーの床屋が荷造りを間違えて、彼女の役割に適しない鬘を入れて来たからだった。
「平《ひら》べったくって、」と彼女は言った、「おかしな格好に毛がたれ下がってるんだもの。それを見た時私は、ほんとに、涙の限り泣いちゃったわ。ねえ、デジレさん。」
「はいって来ると、」とデジレは言った、「びっくりしたわ。顔の色がなくなって、死人のようになってたんですよ。」
 クリストフは笑った。コリーヌはそれを鏡の中で認めた。
「笑ってるのね、人の気も察しないで。」と彼女は怒《おこ》って言った。
 が彼女もまた笑いだした。
 彼は前夜の稽古《けいこ》の様子を尋ねた。
「すっかりうまくいったわ。」ただ一つ彼女は、他人の台辞《せりふ》はもっと削ってもらいたく、自分のは削らないようにしてほしいだけだった。……二人は楽しく話し合って、午後の一部はそれで過ぎてしまった。彼女はゆるゆると着物を着た。自分の服装についてクリストフの意見を聞くのを楽しんだ。クリストフは彼女の容姿をほめ、フランス語とドイツ語と折衷的な言葉を使って、彼女ほど「淫麗《いんれい》」な人を見たことはないと、率直に述べた。――彼女は最初まごついて彼をながめ、それから突然大声に笑いだした。
「私が何か言ったんですか。」と
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